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鎮魂戦艦大和 上下
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(講談社文庫 よ 4-1) 文庫 1978/3/1
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吉田 満 (著)
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昭和56,57年
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底に鉛筆の線、ヤケ
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アマゾンの書評より
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5つ星のうち5.0 鎮魂にふさわしい敬意あふれる文体
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70年ほど前に終わった、アメリカとの壮絶な戦争記録を読み続けて、これほど格調高い文体に出会ったことはほとんど記憶にありません。酸鼻をきわめる戦場を目の当たりにしては、冷静に状況を見渡し、それを精緻に書きとどめることなど、凡俗の精神には望むべくもありません。美しくも哀しい誇り高い群像が、静かで重々しい風格と共に浮かび上がってきます。一部には、戦後の偏った思想に染まった筆者の虚構も少なくないとの指摘もありますが、蒙昧の一読者にはそのような虚飾のあざとさは一切感じられません。
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3000名あまりの乗組員を呑み込んだ巨艦の最期に対して、文語体の風雅な文体が見事に鎮魂の調べを奏でています。当時多くの女学生が憧れ、戦後日本の技術立国をささえたという海兵(海軍兵学校)出身の数多の知性が、日本の軍部の体質を象徴したこの巨艦とともに、鹿児島県沖に沈んだことへの痛切な思いが、「臼淵大尉の場合」にも脈々と引き継がれています。二世として生まれながら、あえて日本を祖国として大和と運命を共にした兵士について書かれた「祖国と敵国の間」からは、運命に翻弄されながらも、従容として自らの宿命を全うする人間への惜しみない敬意が満ちあふれています。
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記録の部分には確かに過ちがあるのかもしれません。そうだとしてもなお、失われた夥しい生命に対して報いようとした鎮魂と、次世代への痛切な思いは、抑制された文体だからこそ、十二分に伝わっているような気がします。
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5つ星のうち5.0 圧倒される臨場感
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三つの作品が収められるが、やはり「戦艦大和ノ最期」には圧倒される。
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大和の出撃から沈没に至るまで、想像絶する出来事をまるで現場に居合わせたかのように追体験した。
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著者は学徒出身少尉、副電測士として大和に乗艦した。艦隊の司令部に勤務して、艦隊全体の動きを常に把握しておかなければならない立場にあった。この立ち位置が、この記録に全体を見渡す視野の広さと客観性を与えたのだろう。
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司令長官や参謀らのトップから将兵に至るまで、極限状況に直面した人間の振る舞いが記録される。鮮明なイメージを結ぶ描写、その時々の著者の感情も簡潔に書きとどめられる。
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漢字カタカナ混用の文語文は最初は読みづらいが、すぐに慣れる。漢文を読み下すにも似た力強いリズムがある。この文体を得て、非日常的な事実と感情の表現が可能になったのだろう。
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誰から見ても無謀で愚劣な作戦であった。それを百も承知で命令は拒むことはできない。自らの死の意義を思って学徒出身の士官たちは苦悩する。だが、この不条理な状況にあっても、彼らは任務に精魂こめてこたえる。そこに一種の崇高ささえ感じるのであるが、それは戦争の肯定とか美化とは別のものである。
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著者は、アメリカ軍の戦法の見事さと兵士の勇敢さをスポーツマンシップにたとえて感嘆し、自らの完敗を認める。その態度は潔くフェアである。これが、この体験記に清潔感をもたらしてひとつの救いとなる。
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だが、それにしても読後感は重い。「敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」。若き士官たちが下した結論に、後世の私たちはいや私は答えるすべがない。
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5つ星のうち5.0 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何
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戦艦「大和」は沖縄に向かう特攻作戦を行なった。九死に一生を得た著者は、名著『戦艦大和ノ最期』として発表。「大和」出撃から戦闘、沈没までを、明晰な意識のもと冷静な筆致で描き、戦争とはいかなるものか、戦争の虚しさを問う。そうして著者は、戦いに散華した者の死の意味を問い続ける。戦争と平和、日本という国、日本人の生き方を問う渾身の書だ。
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「序」で江藤淳は言う。「本書を成立させている三十年の歳月は、慟哭と鎮魂がいまなお過去のこととなり得ていないことを暗示している。眠れ、大和よ、三千の骸よ!」
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本書の構成は「臼淵大尉の場合」「祖国と敵国の間」「戦艦大和ノ最期」の三部になるが、もとより「戦艦大和ノ最期」に力点が置かれている。当時の公文書の文体であるカタカナ交じりの文体が効果的である。《徳之島ノ北西二百浬ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨体四裂ス 水深四百三十米 今ナオ埋没スル三千ノ骸 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何》
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5つ星のうち5.0 死と向かい合った記録
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本書は「戦艦大和ノ最期」を主として、その書評・跋文・序文・対談を収めたものである。
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「戦艦大和ノ最期」とは戦艦大和の最後の哨戒当直として艦橋に勤務した吉田満氏が、特攻が決まってから出撃、米軍との戦闘を経て、漂流、救助の末、九死に一生を得て帰郷するまでの記録である。あとがきによれば、吉川英治氏の勧めで自らの体験を書き下ろし、小林秀雄氏の目に止まって出版することになったそうである。
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全体の特徴は、下記の点が挙げられる。
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・ 漢字とカタカナとの文語体で、戦闘報告書を読むような印象を受ける
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・ 戦友一人一人の人となり、戦い様、死に様、家族について丁寧に書かれている
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・ 戦闘と撃沈後の漂流とについて、類のない生々しさで書かれている
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・ 著者のその時々の正直な気持ちが書かれている
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「海戦史ニ残ルベキ無謀愚劣ノ作戦」と認めながらも、命令によって死を強いられた当時の「若者が、最後の人生に、何とか生甲斐を見出そうと苦しみ、そこに何ものかを肯定しようとあがく」姿が正直に描かれている。
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鎮魂 吉田満とその時代
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(文春新書) 新書
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2005/4/20初版 状態良
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粕谷 一希 (著)
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商品の説明
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内容(「BOOK」データベースより)
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学徒出身の海軍少尉吉田満を乗せた「大和」が沈んだのは昭和20年4月7日午後二時二十三分であった。奇跡的に生還した吉田は日本銀行のエリート行員として日本経済の中枢で戦後を送る。しかし、高度成長を謳歌し、そのなかで浮かれるには、彼はあまりに真摯に過ぎた。山野に散り、深海に沈んだ多くの若者たちが死の前に遺した願いと誠実に向かい合ったひとりの男の見事な人生が、ここにある。
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著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
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粕谷/一希
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1930年、東京生まれ。東大法学部卒後、中央公論社に入り、『中央公論』編集長などを務めたのち退社。著述にたずさわる一方、『東京人』編集長に就任し、都市出版(株)を設立、『外交フォーラム』などの編集もおこなう(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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新書 : 284ページ
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アマゾンの書評より
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5つ星のうち4.0 吉田満という巨大な謎
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吉田満氏の代表作「戦艦大和ノ最期」から与えられる感動というのは、ちょっと他に類をみないものです。
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大げさでなく、背筋に電流が走る。
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その圧倒的な魅力は、時にある種の魔性さえ感じさせるほどです。
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他の作家の作品から頭ひとつぬけたところでまばゆい光輝を放つあれほどの傑作が、もの書きとして、特に専門的な修業をしたわけでもない、言わば「素人」の手によってこの世に送り出されたことは、読み返すたびに感じる大きな不思議です。
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吉田満というのは一体どういう人なのだろう。
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「戦艦大和ノ最期」に魅了された読者の頭を必ず一度はよぎるであろう、この疑問を解くための一助となってくれるのが、鎮魂」と銘打たれたこの新書です。
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書き下ろしでないため、全体の構成はあまりまとまりがあるとは言えません。
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盛り上がってきたところで、いきなり、無味乾燥な時代状況の説明が挿入されたりして水をさされますし、また、「戦艦大和ノ最期」をダイジェストで紹介した「附録」などは、どう見ても不要のものと思われます。
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要するに、構成上はかなりの欠陥を抱えた書物であるのですが、それでも、吉田氏の生い立ちや、戦後の生きざまについて、氏をよく知る人達の証言や日記、あるいは氏の残した手紙などを駆使して紹介した部分は非常に読み応えがあり、文学史上に残る傑作をものにした、偉大なる「素人」の秘密について、いくつもの貴重な示唆を与えてくれます。
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もちろん、これ一冊を読めばたちどころに、吉田満という巨大な謎が解けるわけではありませんが、「戦艦大和ノ最期」の魅力に取りつかれた「吉田ファン」の興味を裏切らないだけの充実したものを、この小さな新書は十二分に備えていると思います。
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5つ星のうち5.0 カトリックからプロテスタント日本基督教団へ改宗した理由(鈴木正久牧師の影響)
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P193『教会に無縁な私などには、その間の事情を内的に理解できないが…』への説明です。
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吉田満は、1946年にカトリックの今田健美神父と知り合いになり、世田谷教会で洗礼を受ける。
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しかし、そのカトリックは、戦争中、裏でローマ法王が、ナチス党ヒトラーを支援しており、更に、日本の「天皇への礼拝・宮城遥拝」の伺いへも、日本人の習俗として容認していた。
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つまり、戦争協力に対して、政治と宗教と分離して、社会への責任は重視していなかった。
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ところが、吉田満は、1949年中井嘉子さんと結婚するが、嘉子さんと教会の真理性を真剣に語り合った。
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プロテスタントの日本基督教団の鈴木正久牧師と知り合い、カトリックから日本基督教団に改宗した。
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鈴木正久牧師は、後年、膵臓がんの末期の状態だったが、教団議長の立場で「戦争責任告白」を世界の教会に向けて告白した。これでアジアの国々のキリスト教会との和解を築くことができた。
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後から癌が発覚するのだが「誰かの血を捧げなければならない」という聖書の言葉はこのことだったのかと証言している。癌の治療でエネルギーを費やしたら「告白」事業が実現できなくなっただろうから。
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教団の「戦争責任告白」は、政治と宗教とを分離するのではなく、政治にも責任があることを痛烈に自覚し、もう戦争は起こさないという教会の宣言であった。
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「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」
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わたくしどもは、1966年10月、第14回教団総会において、教団創立25周年を記念いたしました。
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今やわたくしどもの真剣な課題は「明日の教団」であります。わたくしどもは、これを主題として、教団が日本及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考え、また祈りました。
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まさにこのときにおいてこそ、わたくしどもは、教団成立とそれにつづく戦時下に、教団の名において犯したあやまちを、今一度改めて自覚し、主のあわれみと隣人のゆるしを請い求めるものであります。
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わが国の政府は、そのころ戦争遂行の必要から、諸宗教団体に統合と戦争への協力を、国策として要請いたしました。
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明治初年の宣教開始以来、わが国のキリスト者の多くは、かねがね諸教派を解消して日本における一つの福音的教会を樹立したく願ってはおりましたが、当時の教会の指導者たちは、この政府の要請を契機に教会合同にふみきり、ここに教団が成立いたしました。
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わたくしどもはこの教団の成立と存続において、わたくしどもの弱さとあやまちにもかかわらず働かれる歴史の主なる神の摂理を覚え、深い感謝とともにおそれと責任を痛感するものであります。
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「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。
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しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。
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まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。
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終戦から20年余を経過し、わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。この時点においてわたくしどもは、教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。
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1967年3月26日 復活主日
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日本基督教団総会議長 鈴木正久
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5つ星のうち5.0 昭和という時代
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吉田満の生い立ちから中学、東京高校そして物書きとしての時代を丹念に追うと共に昭和という時代を描き出す労作。
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序章から7章までは昭和60年に執筆されたもので、残り3章と「附」である「『戦艦大和ノ最期』の構成と魅力」が書き下ろしてある。
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7章までは「当時の雰囲気を伝えるために、敢えて筆を入れなかった。」とあるようにその時代の雰囲気がスリリングに伝わってくる。
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戦時中はリベラルな雰囲気の中で育った吉田がむしろ、戦後への疑問を抱いた昭和という時代は何であったのか。
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上山春平や阿川弘之なども引きながら考察する。
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吉田の「アイデンティーへの執着」「鎮魂への祈り」そして司馬遼太郎や鶴見俊輔に対する反論など初めて知った事実も多かった。
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歴史や日本について考えようとする人すべてにおすすめです。
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5つ星のうち4.0 今、必要なものは。
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この本を読んで、吉田満の戦後の数々の文章の原点が高校時代、久里浜生活を通じ身に付けていった
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リベラルな個人の自由かつ自立にあったのではないかと思うようになった。
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グループのリーダー水野三郎(久里浜日記の中でのサブロ、戦死)の文章
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「善い人間になりたい
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善い仕事を残したい
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人々を幸せにしたい」
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が、吉田の終生の生き方の底流にあったように感じる。
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それは、同じく大和に乗艦した臼淵大尉が、意味の無い特攻を命令する日本という国と指導者に対し「負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ、日本ノ新生ニサキガケテ散ル、マサニ本望デハナイカ」と言葉を発するが、その世代の生き残った者としてどう生きるか、彼らの死をどう戦後の新世代に引き継ぐのかということだった。
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読んで吉田満への理解が深まる。
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5つ星のうち5.0 ぜひ読んで考えて欲しい本である
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吉田満氏は「戦艦大和ノ最期」を書いた著者であるが、彼は電測士官として大和に乗り込み、司令長官を始め艦隊の中枢部の状況を一部始終見て聞いた人物である。そして出撃(戦略自体が無謀であることは司令長官も下士官も全てが解っていた)。沈没するも彼は生き残り、その後日本銀行に勤め、クリスチャンになる。
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序章(吉田満の問いつづけたもの)と第八章(戦艦大和の特攻出撃)およびあとがきは十分読み応えのある個所である。ぜひ全ての人に読んでもらいたい本である。
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