未使用で、撮影のため初めて開けました。ただし長期保管のため経年劣化あるかもしれません。
王 貞治(おう さだはる、ワン・チェンジー、ウェード式: Wang Chen-chih、1940年〈昭和15年/民国29年〉5月20日[注釈 1] - )は、東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区本所)出身の元プロ野球選手(内野手、左投左打)・監督。愛称は「世界の王」[1]「ワンちゃん」[1]。
国民栄誉賞受賞者第1号(2025年11月現在でも外国籍では唯一の受賞者)であり[2]、2010年10月26日には文化功労者として顕彰された。
福岡ソフトバンクホークスの取締役会長[3]並びにチームの特別アドバイザー[4]、日本プロ野球名球会顧問[5]を務める。
概要
殿堂入りレリーフ
中島治康、野村克也に次ぐNPB史上3人目・セ・リーグ初の三冠王達成者。世界記録となるレギュラーシーズン通算本塁打868本を記録し、読売ジャイアンツのV9に貢献した。シーズン四球(158個)、シーズン敬遠(45回)、シーズン出塁率(.532)、シーズンOPS(1.293)、通算得点(1,967点)、通算塁打(5,862塁打)、通算打点(2,170打点)、通算四球(2,390個)、通算敬遠(427回)、通算出塁率(.446)、通算長打率(.634)、通算OPS(1.080)のNPB記録保持者。ウラディミール・バレンティン、村上宗隆に次ぐNPB史上歴代3位のシーズン本塁打記録保持者(55号、NPBのアジア人としては村上に次ぐNPB史上歴代2位)。本塁打王をNPB最多記録となる15回、打点王を13回、最多出塁数(現在の最高出塁率)を12回獲得、最優秀選手をNPB最多記録となる9回受賞している。ベストナインもセ・リーグ最多記録となる18回受賞している。またセ・リーグ初の最多出塁数を獲得、セ・リーグ初の一塁手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している[6]。
「一本足打法(世界のフラミンゴ)」と呼ばれる独特の打法で通算本塁打数,当時のシーズン本塁打数のNPB記録を打ち立てるなど[7]、盟友長嶋茂雄とともにON砲として強大な打力でチームに貢献し[8]、巨人の「V9」時代の顔として人気を誇った。王の記録したシーズン公式戦通算本塁打868本はNPB最多記録であり、ハンク・アーロンが保持していた当時のMLB通算本塁打記録の755本塁打を抜いたことで知られるほか[注釈 2]、数々のNPB記録を保持する(記録の詳細については後述)。
現役引退後は、巨人とダイエー・ソフトバンクで監督を歴任した。2008年シーズン終了と同時にソフトバンクの監督を退任し、同球団取締役最高顧問に就任。2009年1月1日より取締役会長。2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシックでは日本代表監督を務め、優勝へ導いた。2009年の第2回大会では監督相談役、2013年の第3回大会では特別顧問[9]を務めた。
現役時代の背番号「1」は、巨人監督退任の翌年(1989年)から永久欠番となっており、ダイエー・ソフトバンク監督時代の背番号「89」は同球団監督退任の翌年2009年から準永久欠番として扱われている。1994年に野球殿堂入り。
現在はソフトバンク球団取締役会長終身GM、日本プロ野球組織(NPB)コミッショナー特別顧問、読売巨人軍OB会顧問(2014年まで会長)、日本プロ野球名球会顧問、世界少年野球大会を主催する世界少年野球推進財団理事長、外務省より委嘱の野球特別大使、「ふるさと清掃運動会」実行委員長、九州国立博物館評議員などを務める。
中華民国一等景星勲章[10]、二等景星勲章授与[11]。東京都名誉都民[12]・墨田区名誉区民[13]・目黒区名誉区民[14]・福岡市名誉市民[15]・宮崎市名誉市民[16]、中華民国・台南市名誉市民・高雄市名誉市民[17]・台北市名誉市民[18]。
経歴
生まれ
東京府東京市本所区(現:東京都墨田区)で、中華民国籍の王仕福(中国語版)(1901年 - 1985年、浙江省青田県出身[19]、1922年渡日)、日本人の王登美(1901年 - 2010年、富山県富山市出身[20]、旧姓:當住)の次男として出生。
1940年5月10日に二卵性双生児の弟として出生した[21]が、戸籍上の出生日は5月20日[21]である。両親が「この子は長く持ちそうにない」と出生届の提出を見合わせていたため、実際の出生日と戸籍上の出生日が異なることを、自著『もっと遠くへ〜私の履歴書〜』で王自身が説明している。出産時には仮死状態であり、その後も病弱で両親も随分心配したという[22]。「3つの歳まで立つことすらおぼつかず、4歳でやっと丈夫になれた[23]」と本人が述べている。
6人兄弟の次男である。長兄は鉄城、長姉は幸江、次姉は順子、同じ日に生まれた双子の姉は廣子(1歳3か月で死去)。末妹の佳子は数か月で死去したため、末っ子として育てられた[24]。太平洋戦争中の一時期、王一家は母親の旧姓「當住」を名乗っていたこともあったという。
少年時代
王いわく「自分は中学生の時点で175センチメートル前後あり、実際に肩幅もよかった。もっと実際の話をすれば、好戦的だったと認められていた。」とのことである。一方で自著『もっと遠くへ〜私の履歴書〜』では、中華料理『五十番』を経営する父の王仕福が働き者で地元に溶け込もうと近所付き合いがよかったと記している[25]。
墨田区立業平小学校の正面玄関の屋外に展示されている王のサインと手形。開校100周年モニュメント
小学生の頃、当時の横綱・吉葉山潤之輔から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。そして本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。 野球との出会いは、まだ子どもの頃の神社の境内や路地での草野球である。本格的に野球を始めたのは兄の鉄城が慶應義塾大学医学部に入学し野球部に入ったことで、その兄に連れられて野球部の合宿に行ったことから、小学校4年生でクラス仲間とチームを作った。懸垂も出来ず腕相撲もからっきし弱い子だったが野球はうまく投手で4番を打っていた。1953年に墨田区立業平小学校を卒業した[21]が、進学した墨田区立本所中学校には野球部がなく、地元の町工場のおやじさんが作った高校生主体の野球クラブ「厩四ケープハーツ」に中学生ながら参加する。しばらくこのクラブで自分よりも年上の大きな上級生にもまれながら活動していた。そして同じようにこのチームに入った同じ中学の子がキャッチャーを務めていて、その後「本所中学にすごいのがいるらしい」との噂が広がり、ある日中学校に東京都の野球大会の招待状が届き、本所中学校で何とかメンバーをかき集め急遽参加した。投手と捕手以外は素人同然であったが、あれよあれよという間に区大会で優勝し、東京都大会では2回戦で負けたが、バッテリ國際運送規定電池為危險物品,無法運送,購買後會幫您取出丟棄。ーがしっかりしていれば野球になることを実感していた[26]。
荒川博との出会い
荒川博の自宅にて、荒川(右)と
この高校生と社会人ばかりの厩四ケープハーツの、厩四は「墨田区厩橋四丁目」(現:墨田区本所)からで、ケープハーツは当時1950年に社会人野球の代表と戦うために来日したアメリカのチーム名を借りたものであった。そしてこのチームで後に王のコーチとなり師匠となる荒川博との出会いがあった。
墨田区立本所中学校2年生であった1954年11月末に、隅田公園今戸グラウンドで厩四ケープハーツの試合に参加していた際に、2打席凡退の後に自転車で通りかかった見知らぬおじさんが1人で割り込んできた。当時毎日オリオンズの現役選手だった荒川博で、犬の散歩をしている際に通りがかって、たまたま王が出ていた野球の試合を眺めていたというものである[27]。
試合を観ていた荒川は、当時右打ちだった王に対して「なぜ君は左で投げるのに右で打つんだ?」[要出典][注釈 3]と質問すると、王は「それは、親父から箸と鉛筆と算盤は右でやれと言われているので、バットも右で持たないと親父に文句言われると思って…」と答えた。もともと左打者だった荒川は、「今の野球は左利きの選手に希少価値があるのに、君はわざわざ右で打つなんてもったいない話だ…」[要出典]と言った[28][注釈 4]。
それを聞いた王はすぐに左打席に入り打ってみると、左中間をライナーで破る二塁打となり、以後は左で打つようになった[注釈 5]。この時、中学生でありながら身長176cmと長身だった王を見て、荒川は「君は今何年生だ?」と聞き、王が「2年生です」と答えると、その野球チームは高校生を含めた社会人チームであり、周囲の大人と大差ない体格をしていたので、荒川は高校生と勘違いし、「そうか、じゃあ早稲田大学(荒川の母校)はどうかな?」と勧めると、王が「はい、そうなるといいのですが、その前に高校に行かないと」と答えたため、荒川は「2年生というのは中学生なのか」と驚いたという。
のちに王は、「荒川さんによれば、最初の右の2打席はとても見られたものでなく、左打ちを薦めたのは私が左で投げていたからで深い意味はなかったそうだが、これが私の人生の転機になったことは間違いない」と著書で述べている[29]。
やがて高校進学を迎えて、将来は技師にという父が望む未来が頭にあり、勉学に励むつもりであった。この時には「荒川さんがいた早稲田実業野球部に入り、その後ジャイアンツに入り、やがて荒川さんに再会することなど夢にも思わなかった[30]」とのことである。
父:仕福は自分の出身地に医師がおらず、また電気も全くなかったことから長男:鉄城を医師に、貞治を電気技師にして[注釈 6]、兄弟ともに母国に戻り働いてもらいたいと考えていた。王は進学校の都立両国高校の受験を目指したが、担任教師から少し危ないとのことで、同じ進学校の都立墨田川高校なら、ということで仲間2人と一緒に受けた。ところが合格ラインすれすれと思われた1人だけが合格で、まず余裕をもって受験した2人(王も含む)が落ちる結果となり大きなショックを受けた[32]。そこで荒川博の母校でもあった早稲田実業商業科に進学することになった。当時、墨田川高校には硬式野球部がなく、後に王はこの受験失敗を「人生の大きな分岐点の1つ」と振り返っている[33]。また、荒川との出会いがなければ、都立墨田川高校受験失敗後、野球をやろうと思って早稲田実業高校に行くこともなく、巨人への入団もなかったと述べている[34]。
早実高等部時代
早実高等部時代
早実野球部とは王が中学生時代に厩四ケープハーツのメンバーと一緒に練習に参加したことがあった。この時に久保田高行総監督・宮井勝成監督とも会っており、中学生離れしたサウスポーとして名が知られるようになったことで勧誘もあった。他に明治高や日大三高などの当時の強豪校からも誘いが来ていたが、最初に声をかけてくれた早実に恩義を感じていた[35]。早稲田実業高校に入学してすぐに野球部に入った。
この時の野球部には、3年生にのちに国鉄スワローズに入った徳武定之、毎日オリオンズに入った醍醐猛夫がいた。入部して僅か1か月後の5月には、3年生エース大井孝夫に代わり1956年春季関東大会東京都予選決勝に先発。同年の春の選抜にエース並木輝男を擁し出場した日大三高を4-0で完封した。この直後に有頂天になってグラブを放り上げて喜んだが、観戦に来ていた兄の鉄城に「お前は相手の気持ちを考えたことがあるのか」と後に咎められて、父の仕福が戒めとした「日本に来て、日本に生かされている」ことを忘れず偉ぶったりおごったりして他人に反感を買うことが最もいけないことであることを、改めて思い知るのであった。王はこの時以後、嬉しいときも悔しいことも感情を出さないようになった[36]。春季関東大会準決勝でも高崎高に完封勝ち、決勝は大井が神奈川商工を抑えて優勝を飾る。
2か月後に夏の甲子園東京都予選に出場。王は左翼手兼控え投手としてレギュラー入りし、1年生ながら徳武、醍醐の3・4番のあとの5番を任された。準決勝では、当時の早実の最大のライバルであった明治高(この時のエースは村田元一で後に国鉄スワローズに入り、王にプロ入り初の本塁打を打たれた)を2-1で破る。決勝も成蹊高を13-1で下し、夏の甲子園に出場、王は甲子園の土を初めて踏んだ。1回戦の相手は新宮高であったが、王は5番左翼手として出場し順調に勝ち上がる。2回戦では1年生ながら初めて先発として起用された。しかし同年に春夏の甲子園連続準優勝を果たす強豪・県岐阜商の左腕エース清沢忠彦と投げ合い、1-8と敗れる。この時に王は知らなかったのだが、後にバッテリ國際運送規定電池為危險物品,無法運送,購買後會幫您取出丟棄。ーを組んだ醍醐から次のように聞かされた。試合前夜に主将であった醍醐が、久保田総監督・宮井監督から次の試合に1年生の王を先発させると告げられて、「なぜ3年生の主戦投手でないのか」と不満げに聞くと、「次の春から先のことを考えているんだ」と話していたという。この試合の球審を務めたのが山本英一郎(後の日本野球連盟会長)で、醍醐の話によると、この試合で山本球審はボール球を連発する王の投球に「何てコントロールが悪いんだ」とぶつぶつ言っていたという[37]。
この年の秋から1年生ながらエースとなった。久保田・宮井両監督の指導のもと、投げる際に腕を頭の上に振りかぶらないノーワインドアップ投法により制球難を克服し、投球に安定感が増した。ちょうどその頃にワールドシリーズでニューヨーク・ヤンキースのドン・ラーセン投手が完全試合をノーワインドアップで成し遂げたことから、王の投法に「ラーセンばりの」という形容詞が付いた。王にすればラーセンの存在はそれよりも早く、荒川宅で8ミリフィルムの映像を見て既に知っており、完全試合で有名になる前にその投法で投げていたという[38]。
1957年、2度目の甲子園出場となった春の選抜は準決勝まで3試合連続完封。4月7日の決勝は、後にプロで同僚となる高知商の小松敏宏との左腕対決となる。8回に3点を奪われて4試合連続完封を逃したものの5-3で完投勝利、関東に初めて選抜優勝旗をもたらした。この試合では左手中指と人差し指のマメがつぶれ、血染めのボールによる完投となる。春の選抜優勝で王は全国に注目される存在となった。続く夏の選手権では、2回戦で寝屋川高から延長11回の熱戦でノーヒットノーランを達成。延長戦でのノーヒットノーラン達成は、甲子園では春夏を通じて唯一の記録である。後年、王は「高校2年の頃が投手としてピークだったと思う。この後バッティングは良くなっていったけど、ピッチングはどことはいえないが、どこかおかしくなっていった」と語っている。この大会は準々決勝で小川博、河東真を打線の中軸とする法政二高に1-2で惜敗した。
この年の秋、早実は静岡国体の硬式野球高校部門に選出されたが、王は当時の国籍規定(王は中華民国〈台湾〉国籍)のため出場できなかった(なお、現在はこの国籍規定は撤廃されている)。王は自著「回想」では「生涯最も悔しかったこと」と語っているが、後年のインタビューでは「高校球児は甲子園こそ目標で、国体にはそこまでのモチベーションはなかった。今振り返ってもそういうこともあったな、程度。甲子園大会でそういう規定があったら悔やんでも悔やみきれなかっただろうけど」と語っている[33]。国体では王の同期である河原田明らが登板したが、1回戦で倉島今朝徳のいた上田松尾高に敗れる。
翌1958年、3年生の時の春の選抜では打者としても活躍し、30年ぶりとなる2試合連続本塁打を放った(当時の甲子園球場はラッキーゾーンはあったが、高校野球も木製バットを使用していた。金属バットの使用が認められるのは1974年からである)。この大会は準々決勝で済々黌高に敗退。同年夏は東京都予選決勝で明治高と対戦、1-1で迎えた延長12回表に4点を奪いながら、その裏に5点を奪われて逆転サヨナラ負けを喫し、5季連続の甲子園出場は果たせなかった。この時、早実の野球部長の音頭により、甲子園本大会に向けて大阪に出発する明治高ナインを早実野球部員全員で東京駅にて見送った。もともと王は父の意向もあって大学進学を考えており、高校2年生の夏にはすでに読売ジャイアンツより誘いがあったが、大学進学を考えていたため断っている[33]。王は「もし5季連続出場を果たしていたら野球にけじめをつけて大学にいっていたと思う。最後に出られなかったことで気持ちが宙ぶらりんになった」と語っている[33]。