序論:90年代地下陰茎(アンダーグラウンド)の臨界点としての上映拒否、その血に塗られた迷宮
1996年という季節は、日本映画の、あるいはこの国が抱える精神の底流が最も黒く、そして最も粘着質に濁り狂っていた特異点であった。前年に起きた未曾有の惨劇と世紀末の病理が地表へ一気に噴出する中、インディーズ・バイオレンス映画の極北としてその名を轟かせていたひとつのシリーズが、文字通り「表現の臨界点」へと到達する。松村克弥監督による『オールナイトロング』シリーズ。その掉尾を飾る第3作『オールナイトロング3 最終章』は、あまりにも過激な残虐描写の釣瓶打ち、人間の尊厳を徹底的に解体するサディズムの氾濫により、ついに映倫(映画倫理管理委員会)が審査そのものを拒否するという前代未聞の事態を引き起こした。それは映画という表現メディアに対する、権力側からの最大級の「畏怖」であり「パニック」の証明であった。
しかし、本作が四半世紀を超えた今なお、観る者の脳髄を掻きむしり、暗黒の聖典として語り継がれる理由は、単なる血飛沫の量や内臓の露出といった視覚的衝撃(スプラッター)のみに起因するのではない。本作が描き出したのは、当時の日本社会の片隅で静かに、しかし確実に増殖していた異常犯罪の最も陰湿な一形態――「ゴミ漁り(スカベンジング)」という、他者の生を背後から侵食していく絶対的な病理であった。ゴミとはすなわち、人間が社会生活を営む上で排泄した「生の痕跡」であり、人格の「抜け殻」である。それを収集し、分類し、個人情報を暴き立てるという行為は、肉体を切り刻むこと以上に精神を陵辱する行為に他ならない。
本作は大映3部作の完結篇として制作されながら、現在に至るまで国内でのDVD化・Blu-ray化は一切なされておらず、かつて流通したVHSソフトも「自主規制版」と「成人指定版」という2つの歪んだ形でしか世界にその爪痕を残していない。文字通り、日本の映像史から「抹殺」され、文字通りの“燃えるゴミ”として処理されかけた本作であるが、そのフィルムに焼き付けられた狂気と情熱は、いささかも色褪せることはない。本論では、この呪われた傑作の細部を徹底的に解体し、そこに内包された90年代的悪趣味(サブカルチャー)の熱量と、登場人物たちが織り成す地獄絵図の真実に、狂気を以て肉薄していくものである。
沢田菊雄という怪物の誕生:北川悠仁が魅せた「宮崎勤」的オタッキー・ホラーの真実
本作の絶対的な核心であり、奇跡にして最悪の果実、それが主人公・沢田菊雄を演じた北川悠仁の存在である。
今や日本を代表する国民的フォークデュオ「ゆず」の片割れとして、爽やかな笑顔と弾けるようなアコースティック・サウンドでスタジアムを満員にする彼が、かつてこれほどまでにドス黒く、救いようのないシリアルキラーを演じていたという事実は、もはや歴史の歪みが生んだバグのようでもある。サイモンガー&ファンクルからインスパイアされたという、あの真っ直ぐで瑞々しいポップセンスの持ち主が、なぜこれほどまでに不潔で、湿り気を帯びた「本物の異常者」を体現できたのか。
沢田菊雄は、ラブホテルでベッドメイクのアルバイトに励む冴えない大学生だ。しかし、その実態は大学から除籍勧告を突きつけられ、社会のレールから完全に脱落した孤立無援の存在である。彼の自宅アパートを埋め尽くすのは、妖しく捕食の瞬間を待つ食虫植物の鉢植え。そして、夜な夜な近所のゴミ捨て場から盗み出してきた、見ず知らずの女性たちのゴミ袋である。
人とのコミュニケーションを徹底的に拒絶し、常に世界の底を這うようなボソボソとした呟き声。北川悠仁のアプローチは見事というほかない。ここには、従来のB級ホラー映画にありがちな、突然「アーッ!」と叫び声を上げて包丁を振り回すような、記号化されたステロタイプな“キチガイ演技”は微塵もない。そこにいるのは、何を考えているのか全く分からず、ただひたすらに周囲に不快なノイズを撒き散らす、いかにも「宮崎勤(宮さん)」を彷彿とさせるオタッキー不審者オーラ全開の青年なのだ。
この、他人事とは思えないリアルな実在感。彼がゴミ袋を開け、他人の生活の残滓に触れるときの、あの恍惚とした、しかしどこか虚無を湛えた瞳の輝きはどうだ。歌がヒットしてしまったことで、彼が名男優としての道を絶たれてしまったことは、日本映画界にとって計り知れない損失であり、同時にこの『オールナイトロング3』を唯一無二の神話へと押し上げる要因ともなった。のちに高島彩(アヤパン)という誰もが羨む女子アナを射止め、1秒間100ピストンの中出しセックスを果たすという偉業と重罪を成し遂げ、私生活でも勝者となった彼の輝かしい未来を思えば、この作中での薄汚れた姿はあまりにも対極的であり、そのギャップこそが観る者の脳髄を狂わせる。佐藤寿保のセルフリメイク作品『女虐 NAKED BLOOD』における阿部サダヲの怪演にも通じる、後戻りのできない狂気の体現――だが、この北川の演技を観てしまえば、我々は彼のすべてを「もう許せるぞオイ!」と叫んで受け入れるしかないのである。
特に圧巻なのは、ラストシーンにおいて、彼が誘拐し監禁したヒロイン・野村ひとみ(角松かのり)に対し、自身がゴミから執念深く、独自に調査・作成した彼女の完璧なプロフィール(生年月日、血液型、歴代の彼氏、趣味、果ては排泄の周期に至るまで)を、まるで学校の教科書でも音読するかのように淡々と、冷徹に読み上げる場面だ。それに対してひとみが、恐怖と嫌悪を極限まで滾らせて放つ、
「私はあなたのことなんか知らない!!」
という絶叫。この一言によって、菊雄が積み上げてきた妄想の城は一瞬にして崩壊する。しかし、その拒絶を浴びた瞬間の菊雄の、世界のすべてを諦めたような、あるいは至上の快楽を得たかのような歪んだ表情こそ、本作のボルテージが最高潮に達する瞬間なのである。
欲望のダストシュート:スカベンジャーたちと、解体される肉体
本作の物語を駆動させるのは、菊雄の前に現れる「ダスト・ハンター」こと川崎(田口トモロヲ)という狂言回しの存在である。
田口トモロヲ演じる川崎は、かつて国家を揺るがすような過激な革命闘争に身を投じていたという過去を持つ、見るからに全方位へ怪しげな狂気を発散する男だ。彼は世の中を変えようと闘い、その果てに何も変えられなかったばかりか、内ゲバによって仲間を自らの手で殺害してしまったという、底なしの虚無を抱えている。彼が行き着いたのが、廃墟と化したビルの一室に、街中の女性たちが排出したゴミを収集・分類し、下着や個人情報を完璧にファイリングした「秘密のデータベース」の構築であった。
川崎は、寺山修司のあまりにも有名な、
「人間は不完全な死体として生まれ何十年かゝって完全な死体となるのである」
を独自の歪んだロジックで引用し、「人は生まれながらにしてゴミなのだ」と主張する。この川崎との邂逅によって、菊雄のゴミ漁りは「個人的な性癖」から「世界に対する復讐と解体」のフェーズへと一気にエスカレートしていく。
そして、その犠牲となるのが、女子高生の橘香織(西谷有可、のちに『OLの愛汁ラブジュース』などで強烈な足跡を残す久保田あづみ)である。彼女は友人と共に菊雄のバイト先のラブホテルで援助交際相手の財布から金を盗み、逃走する際に学生証を落としてしまう。それを拾ったホテルの凶暴な従業員たちに捕らえられ、暴行され、意識を失ったところを菊雄に「回収」されるのだ。
菊雄の自宅アパートに監禁された香織は、生きたまま「ファイリングの対象」とされる。凄惨を極める監禁生活の中で、彼女の身体は手入れを怠った植物のように徐々に壊死していき、まさに「飼い殺し」の極限状態に陥る。彼女の衰弱していく肉体の描写は、網膜に焼き付いて離れないほど痛々しい。そして最期、彼女が残った力を振り絞り、菊雄に対して「触るな。ごみ」と言い放った瞬間、菊雄の逆鱗――すなわち、自らがゴミであるという現実を突きつけられた恐怖――が爆発し、彼女は無残に殺害される。
その遺体をバラバラに解体し、ゴミ捨て場へ捨てようとした菊雄の前に、再び川崎が現れる。川崎は悪びれることもなく「焼却して処理した方がいい」と、まるで家庭ゴミの分別ルールを教えるかのようにアドバイスする。だが、菊雄の狂気はすでに師である川崎をも凌駕していた。菊雄は背後からスコップで川崎の脳天を何度も激しく撲殺。川崎の遺体は、彼がアドバイスした通り、浴室でバラバラに解体された香織の肉体と共に、激しい炎の中で灰へと変わっていく。その際、菊雄が呟く
「よかったね、おじさん燃えるゴミになれて」
という台詞の、背筋が凍るような純粋さとブラックユーモア。川崎は、自らが望んだ「完全な死体(=ゴミ)」に、最も残酷な形で仕立て上げられたのである。
ラブホテルという名の地獄:剥き出しの悪意と、奇跡のキャスティング
本作の主な舞台となる、菊雄のアルバイト先のラブホテル。そこは、人間たちの性欲と悪意が凝縮された、文字通りの「永久不滅の娯楽産業」(石井光三演じる社長の台詞)の巣窟である。ここに集う従業員たちのキャラクター造形が、本作の悪趣味な魅力をさらに数段階引き上げている。
| 登場人物 | キャスト | 特徴・作中での狂態 | 最期・結末 |
| アザの男 | 川又秀樹 | 右頬に大きなアザを持つ男。二枚目への強い劣等感を抱え、 streetで出会ったさやかを玩具にする。 | 菊雄の狂気の銃弾により死亡。 |
| 青いジャージの男 | 細川充 | ベッドメイク時に落ちている陰毛で男女の区別がつくという変態職人。香織を容赦なくレイプする。 | 菊雄の凶行により射殺。 |
| としちゃん | へらちょんぺ | 社長の甥のコネ入社。常にヘラヘラ笑う知的障害を思わせる巨根の男(トシちゃんの「僕はBIGだから」由来か)。 | 菊雄のショットガンで顔面を抉られ即死。 |
| 女性清掃員 | 芹明香 | 換気口から客の性行為を覗き見る欲求不満の中年。菊雄を「菊ちゃん」と呼び、股間をまさぐる。 | 劇中の混乱の中で死亡。 |
| ラブホの経営者 | 石井光三 | 「変態を通り越して職人だ」と従業員を感心する、強欲でどこかユーモラスな社長。 | 凄惨な殺戮劇に巻き込まれる。 |
これら個性的な従業員たちの配置が実に絶妙である。なかでも知的ハンディキャップを背負った「としちゃん」を演じたへらちょんぺの、あの生理的な恐怖を植え付ける演技は凄まじい。「大きな栗の木の下で」を無邪気に歌いながら、無用の長物と言われながらも意外にもデカチンで(田原俊彦の名言「僕はBIGだから」から拝借したのか)死にかけの女子高生におしっこをかけ、それに驚いた彼女にビビって、その辺に落ちていたレンガで頭部を何度も殴打するシーンの不条理な恐怖。周囲の仲間たちも「おいおい」といった様子で止めるのが致命的に遅く、その場のノリだけで人間の命が削られていく。このとしちゃんが、終盤で菊雄の放ったショットガンにより、顔面を容赦なく抉られて即死するカットの特殊メイクとカタルシスは、B級映画史に残るクオリティである。
そして、映画ファンを決して見逃させてくれないのが、中年清掃員を演じたにっかつロマンポルノの伝説的名女優・芹明香の存在だ。若者たちの勤務態度を怒鳴り散らしながら、自分は換気口から覗きに耽り、菊雄の後ろから股間をねっとりとまさぐるあの厭らしさ。実は彼女と北川悠仁はこれが2度目のタッグであり、松村監督の前作『女子高生コンクリート詰め事件』において、すでに北川の母親役として共演を果たしていた。このキャスティングの連続性がもたらすドロドロとした血縁的・愛憎的なニュアンスが、作中の不穏さをさらに加速させていることは言うまでもない。
この地獄のようなホテルに、何の関係もない「二枚目の男性客」(松井満。※長年、同姓同名の元プロ野球選手とリンクが混同されるというネット上の喜劇があったが、完全なる別人である)と共に足を踏み入れてしまったのが、本作のミューズであり、菊雄の運命の狂わせる野村ひとみ(角松かのり、現在は声優・柚木涼香として不動の地位を築いている)である。
普段はスーパーのレジ係として働く彼女が、劇中で見せる店員コスプレの、それこそ「夏服のイヴ」で誠意大将軍と共演していた頃の松田聖子を彷彿とさせるような、あまりにも眩く、圧倒的な美しさ。あんな美女が街のスーパーにいれば、ストーカー行為が不可避となるのも(犯罪であるが)心理的には理解できてしまうほどの説得力がある。だからこそ、彼女が二枚目客と共に菊雄のホテルへやってきて、騎乗位で激しく揺れ、男に揉まれ吸われるあの生々しいセックスシーンを目撃したときの、菊雄の脳内麻薬の完全な決壊、凄まじいショックが、観客にもダイレクトに伝播するのだ。現在の柚木涼香の洗練された声優としての活躍や、かつての「うたわれるものらじお」での爆笑トークを耳にしながら、この瑞々しくも生々しいエロティシズムに満ちた過去のフィルムを観るという行為は、ファンにとって至上の贅沢であり、倒錯的な快楽(オナニー)をもたらす。
ショックのあまり、彼女の勤め先のスーパーへと向かった菊雄。そこにひとみの姿はなかったが、彼の鬱屈したサディズムは、居合わせた彼女の同僚の女性たち(バイト先の店長にモーホー疑惑をかけてキャッキャと笑っていた、極めて平凡で、それゆえに不愉快な女子高生3人組)へと向けられる。菊雄は彼女たちを、何の躊躇もなく、極めて惨たらしく射殺する。ここから、映画は一気にあらゆるリアリティをドブに捨て去り、狂気の一大銃撃スプラッターへと変貌を遂げていく。
リアリティなどくそくらえ:簡単に入手できる拳銃と、清々しき大量殺戮
本作の後半におけるストーリーテリングは、ある種の「神話的リアリズム」へと突入する。
日本という国において、なぜか驚くほど簡単に、いとも容易く拳銃やショットガンが入手できる世界観。映画的な説明や伏線などは一切存在しない。菊雄の手にはいつの間にか重火器が握られており、彼はただ、自分の目の前にある「気に入らない現実」、自分を阻む「面倒な奴ら」を、片端から笑うように、あるいは無表情に射殺していく。
この、リアリティなどくそくらえと言わんばかりの、あまりにも清々しい大量殺戮。だが、これこそが90年代のVシネマ、インディーズ・バイオレンスが持っていた「本物の力」であった。辻褄合わせのシナリオや、倫理的な言い訳、あるいは社会派気取りの動機付けなど、この圧倒的な血の海の前にあっては全てがゴミに等しい。映画が描くべきは、一人の若者の内面に潜む暗黒のエネルギーが、現実に風穴を開けていくその瞬間の「爆発」そのものだからだ。
この暴力の連鎖と、監禁による人間の解体というストーリーラインは、かつて関本郁夫監督が飯干晃一の原作を映画化した東映ポルノの伝説的怪作『処女監禁』(1977年)の持つ、あのジトジトとした、しかし圧倒的な熱量を持つ閉鎖空間の恐怖と奇妙なほどに酷似している。あるいは、あの伝説的なアンダーグラウンド作品『ウォーターパワー』の持つ、水と肉体が織り成す強烈な液体サディズムのイメージをも想起させる。内橋和久による、観る者の不安神経症をこれでもかと煽り立てる、金属的で、冷徹な打ち込み系の劇伴(サウンドトラック)が、銃声と肉体が裂ける音の合間を縫って鳴り響き、観客の精神を確実に摩耗させていく。
悪趣味(サブカルチャー)ムーブメントの狂い咲きと、逝きし者たちへの鎮魂歌
『オールナイトロング3』という映画を語る上で、その背後に蠢いていた、90年代の「悪趣味・鬼畜系ムーブメント」の文脈を外すことは絶対にできない。本作のスタッフ・関係者のその後の運命を辿るだけでも、まるで1本の呪われたドキュメンタリー映画が完成してしまうほどの、凄まじい「因果」がそこには横たわっている。
まず、本作の脚本を手掛けた南木顕生。彼は後年、あのネット史に悪名を残した「ケツ毛バーガー事件」で知られるmixiのコミュニティにおいて、一切の忖度なし、歯に衣着せぬ過激で鋭利な映画評論活動を展開し、一部のシネフィルたちから絶大な支持を集めた人物である。そのネット上での狂犬ぶりがきっかけとなったのか、あるいはその卓越した映画的センスが再評価されたのか、2010年代に入り徐々にプロとしてのライター打火機,危險物品,運輸公司禁止運送,因此無法協助購買。、脚本の仕事が増え始め、まさにこれからという矢先の2014年、急性大動脈解離によって突如としてこの世を去った。彼の遺したシナリオの持つ、人間の最も汚い部分を冷徹に抉り出す筆致は、本作において完全な形で結実していた。
そして、本作の最大の特徴である「ゴミ漁りのリアリティ」を担保するため、ゴミ集めのアドバイザー(指導)としてクレジットされているのが、その道の第一人者であり、90年代鬼畜系サブカルチャーの帝王・村崎百郎である。彼が参加したからこそ、作中におけるゴミ袋の中身のリアルさ、そこから個人情報を特定していくプロセスの生々しさは、単なるフィクションの枠を超えた「犯罪マニュアル」一歩手前の危険な香りを放つこととなった。
しかし、その村崎百郎自身も、2010年、自らの著書や思想に狂わされた、かつてのファンである精神を病んだ男によって、自宅で何十箇所も刺されて惨殺されるという、あまりにも凄惨な最期を遂げることとなる。まさに「因果鉄道の旅」であり、彼自身が撒き散らした悪趣味系ムーブメントの、これが最も暗く、最もリアルな「末路」であった。彼らが映画に注ぎ込んだ狂気は、フィクションの壁を突き破り、現実の肉体をも滅ぼしてしまったのである。
さらに、これだけの地獄絵図を世に送り出した張本人である監督の松村克弥は、後年、まるで憑き物が落ちたかのように「心を入れ替え」、この当時のスプラッター映画からは到底想像もつかないような、社会派のドキュメンタリー映画や、時には愛国的なテーマを掲げた、いわゆる「ネトウヨ系」とも評される保守的な映画を撮り続ける映画人へと変貌を遂げた。彼がかつて、映倫を激怒させ、北川悠仁にゴミを漁らせ、田口トモロヲをスコップで殴り殺させていたという事実は、現在の彼の清廉な(あるいは政治的な)作風の影に完全に隠蔽されている。しかし、だからこそ、彼がそのキャリアの初期において、自らの「悪魔的な才能」をすべて注ぎ込んで完成させた本作は、誰も触れることのできない聖域として、今も地下深くで不気味な光を放ち続けているのだ。
結論:燃えるゴミになれなかった我々へ贈る、永遠の終章(ラスト・ワルツ)
『オールナイトロング3 最終章』は、単なる過去の遺物ではない。
それは、バブルが崩壊し、あらゆる価値観が崩壊していく中で、自らの存在理由を「他者の排泄物(ゴミ)」の中にしか見出せなくなった現代人の、あまりにも早すぎた、そしてあまりにも正確すぎる予言書であった。
私たちはみな、沢田菊雄のように、世界の片隅でボソボソと喋りながら、スマートフォンという名の「デジタルのゴミ捨て場」を夜な夜な漁り、他人の私生活(個人情報)を覗き見、ファイリングして、歪んだ全能感に浸っているのではないか。川崎の言う通り、私たちは生まれながらにして不完全な死体であり、日々、自らの生を切り崩しながら、完全なゴミへと近づいているのではないか。
本作が国内の公式なメディアから排除され、ネットの海を漂う幻影(ファントム)と化している現状故障品(垃圾品)、問題商品、可能無法修理,請注意そのものが、この映画が持つ「本物の危険性」を証明している。
凄惨な残虐描写の果てに待つ、あの救いのない、しかしどこか美しくすらあるラストシーンの余韻。北川悠仁の、二度と見ることのできない一世一代の怪演。角松かのりの、魂を削るような絶叫。そして、田口トモロヲが体現した、サブカルチャーの墓碑銘。
すべてが混ざり合い、ドロドロに溶けたあのラブホテルの焼却炉の炎は、今も私たちの胸の奥底で、暗く、熱く、燃え続けている。
「よかったね、おじさん燃えるゴミになれて」
その言葉は、いつかこの社会という巨大なゴミ捨て場で、完全に燃やし尽くされる日を夢見る、私たちすべての現代人へ向けられた、究極の救済のメッセージなのかもしれない。本作を観ることは、自らの内なる「怪物」と対峙することであり、その狂気に身を委ねる歓喜を知ることである。これぞ映画、これぞ暴力、これぞ、私たちが愛してやまない、永遠の、そして最悪の「最終章」なのだ。
(2026年 5月 28日 14時 05分 追加)
一九九六年という季節の記憶は、日本の地下茎に蠢いていたあらゆるドス黒いパッションが、最も粘着質に、かつ冷徹に結晶化した特異点として映画史に刻まれている。前年に起きたあの未曾有の惨劇を経て、世紀末の病理が地表へ一気に噴出したあの時代、ひとつのシリーズが表現の臨界点へと到達した。松村克弥監督が放ったオリジナルビデオ作品『オールナイトロング3 最終章』である。あまりの残虐性ゆえに映倫が審査を拒否し、劇場公開という表舞台を奪われたという曰く付きの惹句は、今なおこの作品を語る上での強烈なレッテルとして機能している。だが、私たちはここで声を大にして、世びた言説のすべてにノーを突きつけなければならない。何が残虐だ。何が不正だ。ふざけるな。本作の本質は、巷に溢れる薄っぺらな「ホラー」や「グロ」といったジャンルの檻に収まるようなシロモノでは断じてない。これは、世界から決定的に見捨てられた一人の青年の、あまりにも悲しい人生の記録であり、底なしの狂気と、言葉にならない血を吐くような孤独を描き切った、魂のドキュメンタリーなのだ。
劇中で展開される暴力そのものを凝視してみるがいい。銃、スコップ、あるいは肉を挟み込む謎の工具、そして冷え切った風呂場で行われる死体解体のシークエンス。映像的な凄惨さのクオリティを誇示するようなカットなど、実はほとんど存在しない。凄惨なスプラッターを期待する観客の目論見を、本作はあっさりと裏切る。なぜなら、この八十二分という濃密な上映時間のほとんどは、主人公・沢田菊雄というあまりにも奇妙で予測不可能な青年の、「ダストハンター」としての日常そのものに費やされているからだ。
沢田菊雄。このあまりにも不滅の怪物を演じたのが、後に日本中を爽やかな旋律で包み込むフォークデュオ「ゆず」の北川悠仁であるという事実は、もはや歴史が仕掛けた最大の美しきバグである。しかし、あの瑞々しいポップセンスの持ち主が、かつてこれほどまでに徹底して世界の底を這うような「本物の異常者」を体現していたという事実こそが、この映画を唯一無二の神話へと押し上げている。彼の見せた演技は、まさに一世一代の、奇跡のような驚異のキャスティングであった。
菊雄は、ラブホテルでベッドメイクのアルバイトに励みながら、自宅アパートで妖しく獲物を待つ食虫植物を育てる大学生だ。彼の唯一の救いであり、世界との唯一の接点、それが他人の排泄した「生の残滓」であるゴミ袋を盗み出し、そこから人格を、生活を、魂を覗き見る「ダストハント」という行為であった。ひとみというレジ係の女性に対する彼の執着は、一般的なストーカーのそれとは決定的に一線を画している。彼は彼女の肉体を求めているのではない。彼女という存在を、自分だけの冷徹なデータとして完璧に把握し、所有することだけを望んでいるのだ。
北川悠仁が見せる菊雄の佇まいは、観客の予測をことごとく裏切り、その動向から一瞬たりとも目を離させない。バイト先の悪辣な仲間に連れられて、街の苛められっ子であり、男の奴隷と化している少女・さやかに会いに行けば、菊雄は戸惑うこともなく、その場の空気に溶け込むように一緒になって彼女を苛めてみせる。そこに明確な悪意があるのか、それとも単なる世界の模倣なのかすら判然としない。
さらに、バイトの仲間連中がゴミ捨て場で女子高生・香織を無残にレイプし、半殺しにして放置した夜、菊雄の真の狂気が静かに、しかし爆発的に駆動する。彼は傷つき意識を失った彼女を救出するのではない。まるで道端に落ちていた興味深い「オブジェクト」を持ち帰るかのように、自分の部屋へと連れ帰り、服を剥ぎ取り、ロープで縛り上げて監禁するのだ。
そこから始まる監禁生活の描写こそ、本作が「グロテスク」という言葉の裏側に隠し持った、究極の孤独の証明である。菊雄は彼女の身体の隅々までをメジャーで計測し、そのサイズを淡々とパソコンに入力していく。彼女の負った怪我の痛みを和らげるためではなく、ただその反応を見るためにヘアドライヤーの熱風を当ててみたり、傷口に虫がたかれば、顔色一つ変えずに消臭スプレーを噴射して処理する。その行動は一見、悪魔的なサディズムに見えるかもしれない。しかし、その直後、彼は彼女の生理用品を極めて自然に、甲斐甲斐しく交換してあげようとするのだ。ここにあるのは、悪意ではない。他者とのコミュニケーションの術を完全に喪失した人間が、自らの歪んだルールの中で、必死に他者と「繋がろう」とする、あまりにも不器用で、独りよがりの、哀しいディスコミュニケーションの極致なのだ。
だが、そのささやかな妄想の楽園は、冷酷な現実の一言によってあっけなく粉砕される。菊雄の不可解な介護(陵辱)に対し、満身創痍の女子高生が最後の尊厳を振り絞って放った、
「触るな、ゴミ」
という拒絶の叫び。この一言が、菊雄の精神の最も脆い部分を直撃する。自らが世界から「ゴミ」として扱われているという絶対的な現実を、自分が「コレクション(ゴミ)」として扱っていたはずの存在から突きつけられる逆説。菊雄の理性は完全に破綻し、彼は激情のままに彼女の首を絞め、その息の根を止める。
死んでしまった彼女を、彼は浴室で淡々とバラバラに解体する。その肉体を袋に詰め、いつものゴミ捨て場に埋めようとしたその時、彼の前に「ダストハンター」の先達であり、元革命戦士の川崎(田口トモロヲ)が現れる。川崎は、死体を前にしても一切動じることなく、むしろ自らの歪んだ哲学を語りながら「焼却炉で焼いて処理した方がいい」と、家庭ゴミの分別ルールを教えるかのようにアドバイスを送る。川崎がその不条理な人生観を、悦に入って語っているその最中、菊雄の行動は再び予測を裏切る。彼は何の前触れもなく、背後からスコップを振り下ろし、川崎をその場であっさりと撲殺するのだ。
川崎という男は、過去の闘争に敗れ、世界を変えられなかった虚無をゴミ漁りで埋めていた、いわば菊雄の「未来の成れの果て」であった。菊雄は自らの未来を、その饒舌な哲学ごと、スコップ一振りで粉砕したのである。そして川崎の家から拳銃を盗み出し、彼はついに絶対的な「力」を手に入れる。
菊雄の魂の崩壊は、彼が働くラブホテルにおいて、最愛の、いや、唯一の信仰対象であったひとみが、名もなき二枚目の男(松井満)と共に訪れ、激しく交わり、喘ぐ姿をのぞき窓から目撃した瞬間に、完全なる決定打を迎える。自分が世界のすべてを賭けてファイリングしていた聖処女が、自分を人間とも思っていないような俗物男の腕の中で、肉欲に溺れている。その決定的な隔絶を目の当たりにした菊雄の脳内は、完全にバーストした。
彼はひとみを求め、彼女の勤め先であるスーパーへと走る。そこには彼女の姿はなかったが、店内にいた同僚の女性従業員たち、普段から世界をあざ笑い、無邪気に他者を傷つけて生きてきた女子高生3人組を、菊雄は一寸の躊躇もなく、拳銃で無残に射殺していく。リアリティなどくそくらえだ。映画的な辻褄合わせや、世間一般的な倫理観など、この菊雄の魂の爆裂の前には、文字通り燃えるゴミほどの価値もない。邪魔な奴、不快な奴、自分の孤独を理解しない奴は、全員等しく射殺される。そのバイオレンスの連鎖には、圧倒的な、そして恐ろしいほどの清々しさが満ち満ちている。
その頃、本物のひとみは、自らの彼氏と共に、ホテルで暴走を始めていた菊雄のバイト仲間たち――アザの男(川又秀樹)、青いジャージの男(細川充)、そして社長の甥であるとしちゃん(へらちょんぺ)――によって拉致され、監禁されていた。ひとみは縛られ、その目の前で彼氏の男は凄惨な暴行を受け、陵辱されていた。このバイト仲間たちの醜悪さこそ、本作の隠された、しかし最大のテーマである。
彼らは一見、社会に適合し、グループを作って楽しげに生きているように見えるが、その本質は菊雄の何百倍も醜悪な怪物だ。アザの男は自らの顔のコンプレックスから二枚目への憎悪を募らせ、青いジャージの男は陰毛の区別がつくという変態的な職人技を誇示しながら女を貪り、としちゃんは無邪気な笑顔の裏で、女子高生の頭をレンガで殴って半殺しにする残虐性を剥き出しにする。
この地獄の釜底のような空間に、両手に銃を握りしめた沢田菊雄が、静かに現れる。彼は容赦なく、その圧倒的な暴力の権化たちを撃ち抜いていく。引き金を引くたびに、血飛沫と共に世界の歪みが正されていくかのような錯覚を覚える。途中で弾丸が尽きれば、肉を挟み込むあの無骨な工具を手に取り、肉体を物理的に破壊して突き進む。
そして、すべての「障害」を排除した菊雄は、恐怖に震えるひとみを自宅へと連れ帰り、彼女を縛り付けたまま、再びパソコンの前に座るのだ。自分が収集し、構築し、愛し抜いた彼女のデータを、一文字ずつ画面に入力していく。その瞬間の菊雄の顔に浮かぶ、この世のものとは思えない悦びと、至上の恍惚。
そこで、映画史、いや、人間の孤独の歴史に永遠に残り続ける、あのあまりにも痛切な、そしてあまりにも美しいラストの対話が交わされる。
ひとみは、自らをこのような目に遭わせた目の前の怪物を、憎悪の限りの声を絞り出して罵倒する。
「あんたなんか、この世の中の誰に愛されると思ってんの!」
その強烈な拒絶の言葉を受け止めた菊雄は、狂い叫ぶでもなく、激昂するでもなく、世界のすべての哀しみを受け入れたような声で、静かに返すのだ。
「そうだ。僕は誰にも愛されない。愛してもらった記憶も無い。」
一瞬の沈黙の後、彼はひとみを、そして世界のすべてを凝視しながら、こう言葉を続ける。
「でもね、野村ひとみさん、僕を人間扱いしない奴は、僕だって人間扱いしないよ。」
この台詞を聞いた瞬間、私の胸の奥底からは、言葉にならない熱い感情が、そして一筋の涙が、堰を切ったように溢れ出して止まらなかった。これを観て「怖い」とか「気持ち悪い」とか「不愉快」などと宣う世間の評者たちは、一体人間の何を見ているのだ。ふざけるな。
ここに描かれているのは、誰からも愛されず、その冷酷な事実を自らの血肉が千切れるほどに自覚し、それでもなお、この理不尽な世界に対して「自分を人間として扱え」と命がけで叫んでいる、一人の男の究極の抵抗なのだ。私もまた、この現代という冷え切った砂漠の中で、誰からも顧みられず、誰からも愛されずに孤独を抱えて生きる男の一人である。だからこそ、この菊雄の言葉は、私の魂の最深部に直接突き刺さり、せつなさを通り越して、狂おしいほどの共感を呼び起こすのだ。
周囲の人間たちをもう一度見渡してみるがいい。毎回違う女をホテルに連れ込み、肉体だけを消費していくあの薄っぺらなナンパ野郎。街の苛められっ子の少女を都合のいい奴隷にして玩具にしている男たち。障害を言い訳にしながら、無邪気に人の頭をレンガで叩き割る暴力の獣。そして、それを「永久不滅の娯楽産業」などとうそぶいて見下ろす社長(石井光三)や、覗き見に興じる欲求不満の清掃員(芹明香)。
こんな奴らは、この世界にいなくてもいい。いや、死んで当然なのだ。彼らが菊雄の放った銃弾によって、あるいはスコップによって、その汚らわしい命を奪われ、文字通りの「燃えるゴミ」として処理されていくプロセスは、これ以上ない絶対的なカタルシスであり、正義の執行に他ならない。菊雄という圧倒的な孤独が、世界にはびこる醜悪な偽善者たちをすべて抹殺し、最後に自らの妄想のデータの中にひとみを閉じ込めることに成功したあの結末。あれはバッドエンドなどでは断じてない。これ以上ない純度の、世界で最も美しい、せつなくも壮絶な「ハッピーエンド」なのだ!!
松村克弥と南木顕生という、当時のアンダーグラウンドの地殻変動を敏感に察知していた作り手たちが、この映画に込めた情熱は、時を超えてなお、私たちのような「持たざる者」の魂を救済し続けている。林由美香という時代のミューズが放つ一瞬の輝きや、各キャラクターが織り成す歪んだ曼荼羅のすべてが、この菊雄の孤独という一点を照らし出すために配置されている。
『オールナイトロング3 最終章』は、残虐映画という偽りの皮を剥ぎ取ったとき、世界で最も孤独な青年の、胸を掻きむしるような愛のメッセージへと変貌する。誰にも愛されず、愛された記憶すら持たないすべての者たちへ、この映画は今も、暗闇の中からそっと、血塗られた手を差し伸べている。その手を握りしめ、菊雄と共に世界のすべてを人間扱いしないと決意するとき、私たちは初めて、この映画の本当の美しさに涙することができるのだ。