序説:泡沫のセーヌに浮かぶ、愛欲と野心の迷宮
1992年――それは、日本全土を狂乱の渦に巻き込んだバブル経済という壮大な「幻影」が、その足元から音を立てて崩壊しつつあった過渡期である。湯水のように湧き出た資金が、映画という名の巨大なカンバスに注ぎ込まれ、ある種の過剰さと畸形的な美しさを伴った仇花(あだばな)を咲かせていた時代。その掉尾を飾るかのように、突如として銀幕に現れ、そして時代の闇へと消え去っていった至高の奇作が存在する。それこそが、名優・森山周一郎が文字通り「全霊」を賭してメガホンを取った唯一無二の監督映画、『幻想のParis』である。
本作を、単なる「バブルの余剰資金がもたらした、中年の男による、中年の方便のための、都合の良い異国情緒ファンタジー」と切り捨てることはあまりにも容易であり、かつ致命的な過ちである。確かに、画面から漂うのは、異国への安易な憧憬を燃料にした、爛れた愛憎劇の体裁だ。しかし、その通俗的なメロドラマの皮を一枚剥ぎ取れば、そこに見えてくるのは、圧倒的な映像美の濁流と、己の肉体と野心だけを武器に異郷の地で血を流し合う人間の、「狂気」にも似た生存闘争(サバイバル)の記録である。
若き女性たちがこぞってパリを目指した時代。語学修得、キャリアアップ、そして「外国暮らし」という名の免罪符を求めて、華やげる花の都へと渡った無数の留学生たち。その華やかなブームの裏側に潜む、底知れぬ落とし穴と、異邦人を喰らう冷徹な構造を、本作はセーヌ川の歴史の重みとともに、恐ろしく濃厚なタッチで描き出す。キャッチコピーに掲げられた「私の中のもう一人の女が目を覚ます。」という言葉は、単なる扇情的な惹句ではない。それは、異国の空気に当てられ、自らの内なる獣性を解放していく女たちの、血の叫びなのである。
第一章:セーヌの風と、目覚める悪女(ファム・ファタール)の肖像
物語の幕開けは、息をのむほどに壮大で、どこか退廃的なパリの全景から始まる。窓を開ければ、そこに広がるのは歴史の静謐を湛えたセーヌ川の煌めき。その麗しき街並みを、一台の自転車で軽快に、しかしどこか必死に駆け抜ける一人の若き留学生がいる。彼女の名は倉本麗子(大川陽子)。ファッションデザイナーとしての成功を夢見てパリへとやってきた。「東京モード学園」と似て非なる架空の「ボクレールモード学院」で学んでいる、純潔と野心を併せ持つヒロインである。
麗子は、パリの街角に佇む高級ブティック「バルナウーズ」の門を叩く。そこで彼女を待ち受けていたのが、日本人店長であり、妖艶な大人の色香を全身から発散させる桂木沙代子(松尾嘉代)であった。二人が初対面でコーヒーを飲み交わす場面の緊張感と、底知れぬ情念の予感は、映画史に残る白眉と言ってよい。沙代子は麗子の瞳の奥にある「飢え」を見抜き、こう囁く。 「あなたを見てたら、私の若いころを思い出したの。もし良かったら、ここでアルバイトしてみる気ない?」
この瞬間、麗子の中に眠っていた「もう一人の女」の導火線に火がつく。沙代子という、肉体一つでパリの荒波をのしのしと渡り歩いてきた、いわば「高市サナイズム」とも呼ぶべき徹底した自己責任と上昇志向の体現者に出会ったことで、麗子の運命は激しく反転していく。
しかし、このブティック「バルナウーズ」は、単なる洋服店ではなかった。それは、日本の総合商社「光陽商事」がパリに張り巡らせた、利権と欲望の拠点であった。そして麗子は、その光陽商事のパリ支社部長であり、沙代子のパトロンにして愛人でもある熟年商社マン・清坂幸市(中尾彬)と邂逅を果たす。
中尾彬が演じる清坂の存在感は、まさに圧倒的の一言に尽きる。どことなく昭和のピンク映画において狂気的な犯し屋を演じきった港雄一を彷彿とさせる、男の色気と、冷徹なビジネスマンの計算高さを併せ持つ。清坂は、フランスの名門「ロベール社」と光陽商事の、社運を賭けた業務提携という、巨大なプロジェクトの渦中にいた。80パーセントまでまとまっていた契約が、先方の担当者の人事異動によって暗礁に乗り上げる。その焦燥と、男の野心が、パリの夜を赤く染めていく。
第二章:肉体の饗宴と、中尾彬の乳頭(ビーチク)が物語るバブルの情痴
映画の熱量が最初の沸点に達するのは、清坂と沙代子による、狂おしいまでのベッドシーンである。騎乗位で激しく喘ぎ、自らの肉体を波打たせる松尾嘉代の鬼気迫る演技。かつてパンジー出演のアイドル映画『夏の秘密』で見せた、観客のトラウマを抉るような狂気を、彼女はこのパリの寝室でも遺憾なく発揮する。そして、中尾彬100%の男性性が、彼女の豊満な胸を揉みしだき、激しく抱き伏せる。
事後、半裸で横たわる二人の指先には紫煙が揺らめく。ここで特筆すべきは、中尾彬の放つ圧倒的な肉体的実在感である。彼の胸元で鈍く光る乳頭(ビーチク)は、単なる肉体の一部ではない。それは、バブルという豊穣な時代の富を吸い尽くし、女の欲望を喰らって肥え太った、商社マンという名の「肉食獣」の勲章である。豊満な乳房と、美味そうなビーチクがまぶしく交錯するその画面は、観客の網膜に強烈なエロティシズムとして焼き付いて離れない。
「もう行くの?」と縋る沙代子を振り切り、清坂はこう切り返す。 「今度の仕事は俺の商社マン人生のハイライトだ。失敗は許されない」
この男の野心に、若き麗子もまた巻き込まれていく。清坂は、沙代子の目を盗み、麗子を華やかなファッションショーへと招待する。そこで、マダムの了解を半分得たような体裁をとりながら、彼は突如として麗子の唇を奪うのだ。 「ここはパリだよ、自分に正直に生きて」
濃厚なフレンチ・キス。異国の解放的な空気が、麗子の理性をなぎ倒していく。二人はパリの歴史が刻まれた街並みを歩きツアーガイドをする。「ここはね。有名なアン・ラパン・キ・ソティーユ(飛び跳ねるウサギ)。マティスもピカソも、みんな常連だったらしいよ」 「みんなお酒が好きだったんですね」 「酒を愛し、絵を愛し、女を愛した。僕もそう生きたいな」 「だーめ、人が見てるから」
そんな甘美な逢瀬の後に待ち受けるのは、夜の館での官能である。酒瓶と二つのグラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 、そしてベッドの上で、清坂は若い麗子の肉体に溺れていく。頻繁に重ねられる逢瀬。それを察知した沙代子の胸中には、嫉妬の炎が地獄の業火のごとく燃え盛る。
ここで登場するのが、もう一人の悪女、相川みどり(桜樹ルイ)である。ショーダンサーを目指してパリに留学してきた彼女は、バルナウーズに新しいアルバイトとして滑り込む。大半の観客が「いつ桜樹ルイが脱ぐのか」という一点において視線を注ぐ中、彼女はただの肉体要因に留まらない、不穏な空気を映画に注入する。 「ゆうべ、サンバ踊りに行かなかった?」と沙代子に問われ、「いいえ」と冷たく返す麗子。 「あのあたりは日本人も多いですから……」「それにしてもあなた、綺麗になったわね。誰か好きな人でも出来たの?」 「いいえ。失礼します」
去りゆく麗子の背中を見つめながら、やり場のない嫉妬心を、手元にある書類を乱暴に丸めることでしか表現できない沙代子の絶望。ここにおいて、薬師丸ひろ子と三田佳子が火花を散らした『Wの悲劇』に勝るとも劣らない、女優・女優・女優であり、ここを起点に女優たちの、女優たちによる、女優たちのための剥き出しのバトルが勃発するのである。
第三章:スパイ・ゲームの果てに――森山周一郎の渋き重低音(バス)と復讐の美学
清坂の野心を支えるため、そして沙代子から彼を完全に奪うため、麗子は己の女体を武器にした「スパイ」へと身を落としていく。ライバル会社の介入によって壊れかけた商談を成功させるため、清坂は冷酷にも麗子をフランス人クライアントに抱かせるという、最悪の「枕営業(肉弾接待)」を強要する。清坂の卑怯極まりないやり口に、身も心もボロボロに引き裂かれた麗子は、無惨な姿のまま清坂の部屋へと這い戻る。
しかし、運命の悪戯か、その時清坂の部屋には沙代子が訪ねてきていた。二人の親密な様子を見た瞬間、麗子の中で愛は一瞬にして純度の高い「憎悪」へと変貌を遂げる。私の中のもう一人の女が、復讐の鬼として完全に目を覚ましたのだ。
麗子は、かつて清坂から教えられたのと同じ手口を使い、光陽商事の最高機密書類を盗み出す。そして、清坂の失脚を狙う部下・吉田邦男に近づく。この吉田を演じるのが、何を隠そう、本作の監督である森山周一郎その人である。
銀幕に響き渡る、あの渋く、地を這うような重低音ボイス。その説得力は抜群であり、映画全体のトーンを急激に本格派のフィルム・ノワールへと引き締める。麗子は吉田とも懇ろになり、窓際で激しく口づけを交わしながら、清坂を追い詰める謀略を巡らせる。 「強引なやり方は、清坂さん以上ね」 「強引な男は嫌いかい?」 「いいえ……」
麗子の手によって清坂は陥れられ、失脚。さらに麗子は、沙代子からブティック「バルナウーズ」の経営権を完全に奪い取り、自らが新しい店長へと君臨する。肉体一つでのし上がった悪女の勝利――かに見えた。
しかし、パリという冷徹な迷宮は、そう簡単に一人の女に栄光を与えはしない。麗子の唯一の友人であったはずのみどり(桜樹ルイ)が、裏切りの牙を剥く。みどりは麗子を裏切り、吉田へと乗り換えたのだ。映画が始まって約90分、観客が待ちに待った瞬間が訪れる。AV界の至宝・桜樹ルイによる、全編を揺るがす壮絶な濡れ場である。吉田(森山周一郎)との密会、その肉体の交わり。しかし、それは清坂によって仕掛けられた「美人局(つつたせ)」の罠であった。暗闇から光るカメラのフラッシュ。パシャリ、パシャリと撮影される不倫の証拠。清坂による、あまりにもクラシックで古典的な恐喝の手口が、ここに炸裂する。
清坂は再び麗子と組み、吉田への復讐を果たす。しかし、かつて飛ぶ鳥を落とす勢いだった清坂もまた、すでに落ちぶれた「ハシゴを外された商社マン」に過ぎなかった。中尾彬のセリフは、その情念の激しさゆえに、大体何を言っているのか聞き取りづらい(観客は切実に日本語字幕を欲するだろう)。だが、その意味の分からなさが、逆に異郷の地で孤立し、狂っていく男の悲哀を際立たせる。パリは、夢を追う者には優しく、敗れた者には徹底的に冷たい街なのだ。女に裏切られ、資本に捨てられた男の背中は、バブル崩壊の予兆そのものである。
第四章:悲劇の「環」と、凱旋門に閉じる純潔
物語の後半、麗子は現地で一人の若き画家志望の青年・阿部裕樹(森山祐嗣)と出会う。彼はそこまで男前というわけではない。しかし、利害関係と肉体の貪り合いに疲弊した麗子にとって、彼の純粋さは唯一の救いであった。 「パリに負けちゃダメ! 私も負けない!」 そう励まし合う二人の関係は、映画がややタルくなってきた中盤以降の展開(「あと1時間あるやんけ」という観客の心の声を代弁するかのような膠着感)を、静かに駆動させていく。
阿部は、麗子の似顔絵を渾身の力で描き上げる。 「こんなに気持ちよく描けたのは初めてです。この絵のおかげで、自分に自信が持てました。あなたは僕の恩人です」
この阿部の真っ直ぐな芸術への情熱に触れ、麗子はついに、中尾彬という名の「過去の泥濘」から決別することを決意する。麗子はバルナウーズの権利を、自立の道を歩み始めた沙代子へと返す。 「いいえ、店長は沙代子さんにやってほしいの」 その麗子の言葉に、自らの支配力が完全に失われたことを悟り、瞬時に顔色を変える清坂。彼はそのまま、パリの冷たい霧の中へと消えていく。
数日後、コンペティションに自らの作品を出品した麗子は、ある決意を胸に抱いていた。「もしこのコンペで落選したら、私はパリを去り、日本へ帰る」と。
阿部の部屋に残された通の手紙。 「この手紙が着く頃には、私はもうパリにいないかもしれません。素敵な絵を描いてください。さよなら」
手紙を読んだ阿部は、衣服を振り乱し、一心不乱にパリの街を駆け出す。麗子を追って、シャルル・ド・ゴール空港まで文字通り「イク」のだ。エスカレーターの手前、ついに麗子の姿を捉える阿部。 「どうしたの? こんなところで」 「どうしたのって……君を追いかけてここまで来た! 落選したくらいで、どうして……」 「大賞だったのよ」「大賞??じゃあ、どうして日本へ……」
麗子は、静かに、しかし全てを悟った聖女のような微笑みを浮かべて告げる。 「日本へ帰って、整理したかったの。自分の気持ちをね。今まではね……そう、幻(ファンタジー)を見ていた気がするの」 「パリへは、戻ってくるんだね?」 麗子は答えない。ただ、 「もう行かなきゃ。じゃあね」
そう言って、小さく手を振り、エスカレーターで上へと登っていく。彼女の視線の先には、窓外に輝く凱旋門。その光は、数々の男たちに蹂躙され、自らも悪女として肉体を投げ出してきた麗子が、再び一人の独立した「芸術家」として、その閉ざされた処女膜を、精神的な意味において再び固く閉じるかのような、神聖な輝きを放っている。
結び:過ぎてしまえばみんなまぼろし
スタッフロールが静かに流れ始める。全編を彩った大谷幸による、この映画の通俗的な内容にはもったいないほどの壮大でゴージャスで美しくゴージャスな旋律が、最後の瞬間、映画評論家のLiLiCoが歌う主題歌「過ぎてしまえば」へと引き継がれる。
「過ぎてしまえば、みんなまぼろし〜」(IKKO)
まさにその歌詞の通り、バブルという巨大な幻影、パリという街が見せた愛憎の幻、そして中尾彬のビーチクも、松尾嘉代の鬼気迫る情念も、すべてはセーヌの泡となって消えていく。
本作の権利関係は、1995年の配給会社「ヒーロー・コミュニケーションズ」の倒産(あのエロワード・ヤン監督の傑作『クンニーチェ少年殺人事件』の権利をも巻き込んだ、黒社会の噂さえ囁かれる複雑怪奇な迷宮)によって長く闇に葬られ、鑑賞困難な伝説となっていた。しかし、マーティン・スコセッシらがその価値を認め、2016年にデジタル修復されたように、本作『幻想のParis』もまた、映画の記憶という名の地層に深く突き刺さった、剥き出しの劇薬であり、そうなることが望まれる。
テレビ東京(CX)系列の木曜洋画劇場の解説者・木村奈保子風に言うなれば、 「色々あったけれど、最後に私たちのハートに深く残ったのは――麗子と、松尾嘉代と、桜樹ルイが、その命を賭して銀幕に晒した、美しくも哀しい『裸体』の輝き、ただそれだけだったのかもしれませんね」
それこそが、森山周一郎がバブルの終焉に刻み付けた、真実の「幻想」なのである。