◆笹崎ボクシングジム(ささざき―)は、東京都目黒区にあるボクシングジムである。
1946年、初代日本ライト級チャンピオン笹崎により設立された老舗ジム。現在の会長は佐久間俊治で4代目(笹崎家による経営は3代目の笹崎季まで。佐久間は元マネージャーで初代会長の三女の夫[1])。世界チャンピオンファイティング原田を輩出した事で有名である。また、日本初の東洋チャンピオンで後の金子ボクシングジム初代会長金子繁治、後にコメディアン「たこ八郎」となる斎藤清作も、このジムに所属していた。
主な所属選手
世界王者
ファイティング原田(世界フライ級・世界バンタム級王者)
歴代東洋・日本王者
金子繁治(東洋フェザー級王者)
梅津文雄(東洋・日本フェザー級王者)
斉藤登(日本ミドル級王者)
斎藤清作〔たこ八郎〕(日本フライ級王者)
ムサシ中野(東洋ウェルター級王者)
篠沢佐久次(日本ウェルター級王者)
牛若丸原田(日本バンタム・フェザー級王者)
ライオン古山(東洋・日本Jr.ウェルター級王者)
サルトビ小山(日本Jr.フェザー級王者)
スナッピー浅野(日本Jr.フェザー級王者)
タートル岡部(日本ミドル級王者)
吉田拳畤(日本フライ級王者)
神藤太志(日本フライ級王者)
◆笹崎
日本のプロボクサー。北海道空知郡歌志内町(現歌志内市)出身。
戦前、戦後にピストン堀口恒男のライバルとして活躍した昭和初期における日本を代表するボクサーの一人。その鋭いストレートから「槍の笹崎」の異名で呼ばれた。戦後の初代日本ライト級チャンピオン。通算戦績115戦72勝(26KO)28敗11分3EX無判定。引き分けを挟まない26連勝の記録を保持。試合数115戦は日本歴代8位。
1941年に両国国技館で行われた堀口戦は元同門という因縁や、笹崎の公開挑戦状に対し堀口が応戦し、舌戦を繰り広げたことなどにより大きな話題を呼び、「世紀の一戦」と謳われ日本ボクシング界では伝説の試合として語り草となっている。堀口戦が大きな人気を呼び興行的に大成功したため、通算5度の対戦が行われ、2勝1敗2分と笹崎が勝ち越している。
引退後は、笹崎ボクシングジム初代会長として世界王者ファイティング原田を筆頭にムサシ中野、ライオン古山、金子繁治、海津文雄、牛若丸原田、斎藤清作(たこ八郎)、サルトビ小山などの王者を輩出し名伯楽として活躍した。
1915年3月25日、北海道空知郡に炭坑主の笹崎家の次男として生まれる。
1932年、札幌市の「つばめスキー会社」に勤務する傍ら、札幌市立体育館で早稲田大学ボクシング部主将の木村久からボクシングを学び、アマチュアで頭角を現す。
1933年、堀口恒男に憧れ上京。目黒の日本拳闘倶楽部に入門。
1934年5月1日、唐沢靖欣(太陽)戦でプロデビュー。判定勝ち。
1936年、日本陸軍函館重砲に入隊。
1938年、除隊となりリングに復帰するも日支事変により招集され中国大陸へ。
1939年、中国南方で白内障により左目失明。
1940年
2月、兵役免除となり、傷痍軍人として復員。
5月、結城敏夫との復帰戦。
1941年5月28日、両国国技館で堀口恒男と「世紀の一戦」。右目を塞がれ6RTKO負け。(試合詳細)
1942年、妻・季(すえ。旧姓中村)と結婚。
1943年1月17日、二葉朝二(拳道会)との試合を最後に1度目の引退。
1946年
7月6日、後楽園球場に2万5千人の観衆を集め「世紀の一戦の再戦」と銘打ち堀口と再戦。ダウンを奪うも引き分け。この結果に自信を持ち本格的に復帰を決意。(試合詳細)
8月、碑文谷の畑の中にあった馬舎を借りジムを開設。弟子の指導にあたる。
1947年8月31日、日本初の全日本選手権の決勝で内藤哲夫に勝利し第1回全日本ライト級チャンピオンとなる。
1950年2月18日、引退。
1951年
5月5日、目黒区に笹崎ボクシングホール(現・笹崎ボクシングジム)を開設。
10月12日、後楽園野球場にて引退式。
1962年10月10日、愛弟子のファイティング原田が世界タイトル獲得。
1971年、全日本ボクシング協会(現・日本プロボクシング協会)会長に就任。
1986年4月26日、笹崎ボクシングジム会長の座から勇退。名誉会長となる。
1992年、日本プロスポーツ大賞功労者・文部大臣表彰受賞。
1996年8月7日、死去(81歳没)。
◆ファイティング原田
日本の元プロボクサー。ファイティング原田ジム会長。元WBA世界フライ級王者。元WBA・WBC世界バンタム級統一王者。世界2階級制覇王者。
元日本プロボクシング協会の会長で現在は同顧問。プロボクシング・世界チャンピオン会最高顧問。なお、現在は「ファイティング」はJBCで欠名扱いで現役選手が名乗る事は不可能である。東京都世田谷区出身。実弟も牛若丸原田のリングネームでプロボクサーになった。
世田谷区立深沢中学校在学中に友人に誘われ、米穀店に勤務しながら猛練習で知られる笹崎ボクシングジムに入門。
ラッシングパワーを武器に、日本人で初めて世界フライ級・バンタム級の2階級制覇をした名王者。海外の多くの専門誌が「歴代最も偉大な日本人ボクサー」として原田の名前を挙げている。同ジムの同期にたこ八郎がいた。
新人王獲得、そして25連勝
1960年、ライバルの海老原博幸から二度のダウンを奪って、新人王に輝く。その後も無傷の連勝を25まで伸ばした[2]。
19歳で王座奪取
1962年10月10日、19歳で世界フライ級王座に初挑戦。当時の世界フライ級王者の「シャムの貴公子」ポーン・キングピッチ(タイ)への挑戦が内定していた、同級1位の矢尾板貞雄が突然引退し、10位にランクされたばかりの原田に挑戦のチャンスが回ってきた。
蔵前国技館で行われた試合は、原田が左ジャブとフットワークでポーンをコントロールした。11R、相手コーナーに追い詰め、80数発もの左右連打を浴びせ、ポーンはコーナーロープに腰を落としてカウントアウトされた。新王者誕生に無数の祝福の座布団が舞った。しかし、3か月後の1963年1月12日、バンコクで行われた再戦で、今度はポーンが試合巧者ぶりを発揮し、際どい判定ながら王座陥落。原田は減量苦から、この後、バンタム級に転向する。
「ロープ際の魔術師」との死闘
バンタム級に転向した原田は、1963年9月26日、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪、世界バンタム級3位・ジョー・メデル(メキシコ)と対戦する。5Rまでは、原田のラッシュが勝り一方的な展開。ところが、6R、原田の単調な動きを見切ったメデルに、得意のカウンターをヒットされ3度のダウンの末にKO負けした。原田はすぐに再起し、1964年10月29日、東洋王者・青木勝利に3RKO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権を掴んだ。
「黄金のバンタム」に挑戦
世界バンタム級王者・エデル・ジョフレ(ブラジル)は、「ガロ・デ・オーロ(黄金のバンタム)」の異名通り、世界王座を獲得した試合、8度の防衛戦にいずれもKO勝ちし、その中には、青木勝利、原田にKO勝ちしたジョー・メデルも含まれていた。強打者であり、パンチを的確にヒットさせ、ディフェンスも堅い実力王者だった。原田の猛練習は、取材していた新聞記者が、疲労で床にへたり込む程の激しさだったと言う。ジョフレは妻と息子を連れて来日した。試合前の予想は、ジョフレの一方的有利、原田が何ラウンドまで持つか、という悲観的な見方がほとんどだった。
1965年5月18日に愛知県体育館で行われたジョフレ戦で開始のゴングを聞いた原田は、当初今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出た。勝敗の判定は、日本の高田(ジャッジ)が72-70で原田、アメリカのエドソン(ジャッジ)が72-71でジョフレ、そして、アメリカ人バーニー・ロス(レフェリー)が71-69で原田、2-1の判定勝ちで原田は世界王座奪取に成功した。後の1966年5月31日、原田は2度目の防衛戦でジョフレと再戦、判定勝ち。
階級上げ
フライ級でデビューした原田は、バンタム級、フェザー級と階級を上げていくことになった。
三階級制覇ならず
1969年7月28日、WBC世界フェザー級王者ジョニー・ファメション(オーストラリア)への挑戦が決まった。王者の地元シドニーでの敵地開催。原田が優勢と言われていたが地元判定といわれる結果で王者の勝ちになり[注釈 1][3]「幻の三階級制覇」だった[4]。
翌年、ファメションは王者の意地と誇りを賭けて今度は原田の地元東京にて再戦(日本で行われた初のWBC世界タイトルマッチ)を行い、原田は14RでKO負けしこの試合を最後に引退。
引退後
引退後は日本テレビ「ワールドプレミアムボクシング」(ほとんどは浜田剛史とのコンビ)などで解説者として活躍する一方、トーアファイティングジム(現・ファイティング原田ボクシングジム)にて後進の指導にあたった。ジムの開設資金は東亜友愛事業組合が出した[5]。当時のジムは麻布十番のビル3階にあったが、同組合の事務所が同じビルの2階にあった。
1989年、日本プロボクシング協会(当時・全日本ボクシング協会)の会長に就任。
2005年1月、「高血圧性脳内出血」で倒れ、手術を受けたが、現在は回復している。2006年3月25日には、WBCバンタム級タイトルマッチ長谷川穂積VSウィラポン・ナコンルアンプロモーション戦のテレビ中継の解説者として、久々に元気な姿を見せた。
2007年春に日本プロボクシング協会会長選挙に輪島功一、輪島の後任となる東日本協会会長選挙に具志堅用高が出馬表明したが結果的に取り止め(出馬断念)となり、原田・大橋秀行が無投票当選。
2010年の任期満了を以って7期21年務めた日本プロボクシング協会会長を勇退(後任は大橋ジム・東日本協会会長大橋秀行)。以降は協会顧問に就任する。世界チャンピオン経験者により同年に発足されたプロボクシング・世界チャンピオン会では最高顧問に就任。
2016年11月、旭日小綬章を受章[6]。
2025年3月27日、東日本ボクシング協会理事会にて退会届を提出[7]。