985年という映画史の特異点において、我々はあまりにも過激で、あまりにも無謀で、そしてあまりにも愛おしい狂気の遺産を目撃することとなった。それが『ザ・カタストロフィ 3 完結編』(原題:CATASTROPHE 3)である。前作および前々前作で蓄積されたあらゆる文脈、文法、そして製作費の残存すべてを溶竹の勢いでドブに投げ捨て、スクリーン上に炸裂させたこの大惨事にして至高の映画体験は、80年代B級特撮SFアクションの極致であり、映画という表現媒体が持ち得る「過剰さ」の最終到達地点と言っても過言ではない。映画館の暗闇の中でこの作品と対峙した者は誰もが、開いた口が塞がらないまま上映時間を終え、劇場を出たあとも自分の脳が正常に機能しているか疑うハメになった。この作品を評価する言葉として「傑作」や「愚作」といった既存の概念は一切通用しない。ただそこに存在するのは、圧倒的なエネルギーで観客の理性を粉砕しにくる、純度100パーセントのフィルムの暴動なのだ。
まず本作が誕生するに至った背景からして、すでに映画史上の奇跡であり最大の喜劇である。1981年の第1作『ザ・カタストロフィ』は、当時のハリウッドを席巻していたパニック映画ブームの残り香を強引に吸い込み、低予算ながらも地球規模の地殻変動を描いて奇跡的なスマッシュヒットを記録した。続く1983年の『ザ・カタストロフィ 2』では、何故か地殻変動にとどまらず、地球内部から現れた巨大磁気生命体との空中戦という明らかな迷走を見せながらも、B級映画マニアの間でカルト的な人気を確固たるものにした。そして満を持して制作されたのが、この1985年の『ザ・カタストロフィ 3 完結編』である。製作陣は「前作を超えるスケール」という、この手のシリーズが必ず陥る悪魔の誘惑に完全に取り憑かれてしまった。監督であり製作総指揮も務めた狂気の天才リチャード・’バズ’・ミラーは、インタビューで「今作では地球を3回壊す」という訳の分からない大見得を切ったが、完成した本編を見れば、彼が冗談で言ったのではないことが痛感される。
物語の幕開けからして、観客の常識は完膚なきまでに破壊される。前作のラストで地球のコアが安定し、人類に平和が訪れたはずだった。しかし本作の開始わずか45秒、何の脈絡もなく画面右下から現れた謎の巨大隕石群が月面を粉砕。その破片が地球に降り注ぐことで、全世界の火山が同時に噴火するという、前作までの苦竹の解決策をすべて無に帰す暴挙からストーリーがスタートする。ここで素晴らしいのは、世界各地が火の海になり、自由の女神が真っ二つに割れて海に沈むという絶望的なVFXシーンが繰り広げられているにもかかわらず、画面が切り替わると、主人公である元軍人であり天才地質学者のボブ・マクレガン(演じるのは彫りの深い顔立ちと暑苦しい肉体美だけが取り柄のアーノルド・フォン・シュタイン)が、ロサンゼルスのカフェで優雅にパンケーキを食べている点だ。街の外では炎の柱が立ち上り、通行人が悲鳴を上げて逃げ惑っている背景が明らかな合成写真で映し出されているにもかかわらず、ボブはウェイトレスに「カプチーノのおかわりはあるかい?」と甘い声で囁く。この時点ですでに観客は「あ、この映画は正気ではないな」と察し、腹を括るしかないのだ。
本作の最大の笑い所であり、同時に愛すべき点として挙げられるのが、圧倒的な脚本の破綻と、それを力技で押し通そうとする狂気の演出である。ボブは地球の崩壊を止めるため、旧知の科学者であり元恋人でもあるサマンサ博士の元へ向かう。サマンサ博士は怪しげな地下研究所で、地球の自転を強制的に修正する超巨大兵器「ジオ・マグナム」を極密裏に開発していた。ここで観客は誰もが突っ込むだろう。「なぜ一私立の科学者が、地球の自転を動かせるような巨大兵器を一人で建造できたのか?」と。しかし映画はその疑問に対して一言の釈明も与えない。ただサマンサが「アメリカ政府の秘密予算を少し流用したの」とウインク墨水為液體,無法國際運送,請下標前注意。するだけで、すべてが説明されたことになってしまうのだ。この強引さこそが80年代B級映画の真骨頂であり、観客はそのスピード感に眩暈を覚えながらも惹きつけられていく。
さらにストーリーが進行すると、事態は地殻変動や隕石の落下だけに留まらない。なんと地球の内部から、地殻の異常振動によって目覚めた古代の巨大タコ型変異生命体「ヴォルカノ・オクトパス」が地上に侵攻を開始するのだ。カタストロフィ映画のはずが、突如として怪獣映画に変貌を遂げる。この展開に対して、世界の映画評論家やファンたちは「ジャンル崩壊」「脚本の放棄」と散々に叩きつつも、そのあまりの勢いに拍手喝采を送った。映画の半分が経過した時点で、地球は隕石で砕け、火山の噴火で燃え上がり、自転が狂い、さらに巨大タコに襲撃されているという、まさに「不幸のトリプル満貫」状態に突入する。しかし主人公ボブは一切の動揺を見せない。彼はショットガンを一発ぶっ放すと、「タコ焼きにしてやるぜ!」という時代錯誤な決めゼリフとともに、巨大タコに向かって果敢にダイブするのだ。この無茶苦茶なアクションシーンの撮影中、主演のアーノルド・フォン・シュタインはワイヤーに吊るされながら本気で腕を骨折したという逸話が残っているが、その実際の痛がっている表情がそのまま本編の演技として採用されているのは伝説として語り継がれている。
撮影現場の混迷ぶりは画面の端々にまで露骨に現れている。本作は低予算を補うために、イギリスのロンドン郊外、イタリアの荒野、そしてフィリピンのジャングルで分散して撮影が行われた。しかしスケジュールがあまりにも過密だったため、同じひとつのシーンの中でも、ボブがドアを開けて外に出ると急に風景がフィリピンのジャングルになり、次のカットで走っている背景がロンドンの街並みになり、最終的に敵と戦う場所がイタリアの採石場になるという、時空を歪ませたような編集が常態化している。地理的な辻褄などハナから合わせる気がない。だが、この支離滅裂な映像の連続が、奇跡的に「地球全体が崩壊し、世界各地の空間がねじ曲がっている」という特異な臨場感を(奇跡的に、かつ完全に怪我の功名として)生み出しているのだから映画の神様の悪戯としか言いようがない。
特撮面においても、本作はツッコミどころの宝庫である。1985年といえば、SF Xの技術が格段に進化し、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のような洗練されたVFXが世を席巻していた時代だ。しかし『ザ・カタストロフィ 3』の特撮チームは、時代に完全に逆行していた。崩壊する都市のミニチュアは、あからさまにダンボールと発泡スチロールで作られており、ビルが倒壊するシーンでは発泡スチロールの白い粉が画面いっぱいに舞い散る。溶解する溶岩は、大量のチリソースとコンデンスミルクを混ぜ合わせたものを粘土の山に流し込んでいるのが一目瞭然で、スクリーン越しにほのかな甘酸っぱい匂いすら漂ってきそうな質感だ。特に圧巻なのは、巨大タコ「ヴォルカノ・オクトパス」の造形である。撮影用の着ぐるみはあまりにも重すぎたため、動かすことができず、後半のシーンではほとんどスタッフの手と思われる巨大なゴム手袋が画面外から伸びてきて、ミニチュアの戦車を掴んで潰すという、身も蓋もない撮影手法が採られている。このシーンで画面の端に撮影スタッフの腕時計がはっきりと映り込んでいるのは有名で、VHS時代から現代の4Kリマスターに至るまで、ファンの間で絶好のネタとして愛され続けている。
キャスト陣の怪演も、この映画を唯一無二の狂気へと昇華させている。主演のアーノルド・フォン・シュタインは、元々ボディビル出身で滑舌があまり良くないことで知られていたが、本作ではその滑舌の悪さがピークに達している。命がけのクライマックスで「地球を救うんだ!」と叫ぶ重要なセリフが、どう聞いても「チクワを食うんだ!」にしか聞こえず、真面目な場面であればあるほど観客の腹筋を破壊してくる。また、ヒロインのサマンサ博士を演じたエレノア・ロリンズは、舞台出身の過剰な演技法を一切崩さず、ダンボールのミニチュアの前でシェイクスピア劇のような大袈裟な身振り手振りと悲劇的な表情を披露。低予算B級映画のチープな背景と、彼女の無駄にシリアスで重厚な演技との間に生じる巨大な温度差は、もはや芸術的なシュールリアリズムの領域に達している。
そして忘れてはならないのが、宿敵となる悪の科学者ドクター・ヴォルフの存在だ。彼は「地球が崩壊した後に新たな世界帝国を築く」という、小学生でも思いつかないような動機で、地球の崩壊を裏で助長しようとする。演じるのは名優ハロルド・クレインだが、彼はこの映画の撮影当時、極度の二日酔いだったと後に語っており、画面上のドクター・ヴォルフは常に目が座っており、言動が完全にブレている。自分が起動した爆破装置の自爆スイッチと、脱出用ポッドの起動スイッチを押し間違え、主人公と最終決戦をする前に自爆して退場するという、映画史に残るお間抜けな最期を遂げるシーンは、上映当時に劇場で爆笑の渦を巻き起こした。敵のボスが自爆した理由について、ボブが「あいつは急ぎすぎたんだ」と一言で片付ける雑すぎる処理も完璧である。
映画の音楽面に関しても語るべき点は山ほどある。80年代特有のチープなシンセサイザー音が全編にわたって鳴り響くのだが、音楽を担当したシンセサイザー奏者コンラッド・ヴェインは、何故か映画のシーンと曲のトーンを完全に掛け違えてしまった。地球が滅亡しかけて人々が悲鳴を上げて逃げ惑う惨劇のシーンで、何故かアップテンポで陽気なディスコ調のトラックが爆音で流れ出し、逆にボブとサマンサがロマンチックに見つめ合う静かなシーンで、まるでファイナルボスが登場したかのような重苦しい重低音のノイズが響き渡る。この音響監督の狂気とも思えるミスマッチが、映画全体の異常な緊張感とシュールさを倍増させており、観客の情緒を徹底的にバグらせることに成功している。
世界各地の映画データベースや熱狂的なレビューサイト、映画愛好家たちの書き込みを分析すると、本作に対する評価は完全なる二極化を極めている。「映画史上最悪のゴミ」「視力を失うレベルの愚作」という最低評価をつける層がいる一方で、「これぞ80年代B級映画の最高峰」「腹がよじれるほど笑った」「人生観が変わった」と大絶賛する熱狂的カルト信者が多数存在する。特に世界の映画マニアたちの間では、1点か5点かという極端なスコアしか存在しない異常な作品として知られており、平均点をつけることが不可能な「映画界のブラックホール」として君臨しているのだ。公開当時の1985年、興行収入は惨絶たる大爆死を記録し、制作会社は直後に倒産へと追い込まれた。しかし、その後にリリースされたVHSやDVDによって、カルト映画の金字塔としての地位を揺るぎないものにしたという経緯は、まさに「愛されざる名作」の典型的な辿るべき運命であったと言えよう。
さて、物語のクライマックスについて、さらに深く踏み込んで論じなければならない。地球の自転はすでに停止しかけており、超巨大タコが都市を破壊し、空からは隕石が降る中、ボブとサマンサはついに地下深くに設置された「ジオ・マグナム」の制御室へと到達する。ここで地球を救うために残された唯一の方法が提示されるのだが、それが「巨大な手動レバーを二人がかりで全力で引く」という、あまりにもアナログかつ力技すぎる方法なのだ。最先端の科学兵器のはずが、最後は筋力勝負というこの脚本の投げやりさには頭が下がる。画面上では、汗だくになったボブとサマンサが「うおおおー!」と叫びながら、巨大な鉄のレバーを引っ張る。その間にも天井からは大量の発泡スチロールの岩が落ちてきて二人を直撃する。カメラワークは無駄に激しく上下に揺れ、画面は真っ赤な警告ランプで点滅。そして、ボブが渾身の力でレバーを倒した瞬間、画面全体が真っ白な光に包まれる。
普通であれば、ここで地球がどうなったのか、感動的なエピローグが挿入されるはずである。しかし『ザ・カタストロフィ 3 完結編』は違った。画面が白光した次の瞬間、唐突に黒画面に切り替わり、金色のアラビア数字で「FIN(終わり)」という文字がデカデカと映し出される。地球が救われたのか、それとも滅亡したのか、二人が生き残ったのかどうかすら一切明かされないまま、唐突に陽気な80年代ロック調のエンドロール曲が流れ始めるのだ。このあまりにも投げっぱなしなエンディングを迎えた瞬間、全国の映画館では怒号と爆笑が同時に巻き起こったという。完結編と銘打ちながら、何も完結させずに全てを投げ出して終わるこの爽快感。これこそが、リチャード・’バズ’・ミラー監督が到達した「映画的虚無」であり、観客に対する最大の挑発であったのだ。
この映画を真に本格的な視点から再評価するならば、そこには80年代という時代が持っていた圧倒的な熱量と、無鉄砲なまでの自由さが凝縮されていることが見えてくる。現代のハリウッド映画のように、CGで綺麗に整えられ、整合性の取れた脚本と論理的なキャラクター配置で作られた作品では絶対に味わえない、「人間が力技で映画を作っている」という生々しい熱気が、画面の端々から溢れ出しているのだ。ダンボールのミニチュアであろうと、チリソースの溶岩であろうと、スタッフやキャスト陣は本気で地球の危機を描こうとしていた(少なくとも表向きは)。その不条理なまでの情熱と、結果として生じた巨大な破綻のギャップこそが、我々の心を捉えて離さない「愛すべき笑い」の源泉なのである。
映画とは本来、観客を現実から切り離し、圧倒的な虚構の世界へと連れ去るための装置であったはずだ。『ザ・カタストロフィ 3 完結編』は、その目的を極めて異常な形で達成している。観客は上映中の90分間、論理や常識をすべて奪われ、ただひたすらに画面上で繰り広げられる過剰な破壊と支離滅裂な展開の連続に圧倒され続ける。腹を抱えて笑いながらも、どこかでその圧倒的なエネルギーに感動している自分に気づくのだ。CG技術が発達し、破綻のない綺麗な映画が量産される現代だからこそ、本作が放つ規格外の粗雑さと狂暴なまでのパワーは、失われた映画の魂を我々に思い出させてくれる。
『ザ・カタストロフィ 3 完結編』は、決して洗練された芸術作品ではない。むしろ映画の歴史における巨大な事故であり、恥ずべき脱線事故のような存在かもしれない。しかし、その事故現場には、どんな名作映画にも負けない眩いばかりの情熱と、観客を楽しませようという(極めて歪んだ)サービス精神が脈打っている。ヴォルカノ・オクトパスのゴムの手袋、支離滅裂なロケ地移動、チープなシンセサイザー音、そして意味不明な幕引き。それら全てが奇跡的なバランスで組み合わさった時、我々は「映画を観る」という体験の原点にある、純粋な驚きと爆笑を取り戻すことができるのだ。この1985年の狂気の遺産は、時代を超えてこれからもカルト映画の夜空に燦然と輝き続け、観客の脳を溶かし、腹筋を破壊し続けるに違いない。我々はただ、この圧倒的な大惨事を前にして、敬意を表しながら笑い転げるしかないのだ。
映画が持つ無限の可能性と、同時に底知れぬ愚かさを極限まで突き詰めた歴史的怪作、それこそが『ザ・カタストロフィ 3 完結編』である。未見の者は今すぐこの狂気の渦に飛び込み、己の理性が崩壊していく快感に身を委ねるべきだ。そこには、完璧に計算された映画には絶対に作れない、奇跡のような「至高の大惨事」があなたを待っているのだから。