映画という記憶媒体が、時の洗礼に耐えうる「聖なる宝」を記録する装置から、自己愛的な観光旅行のプライベート・ビデオへと暴落した決定的な瞬間——それこそがヴィム・ヴェンダースによる『東京画』(1985)の登場であった。我々がこの映像の残骸を直視するとき、そこに立ち現れるのは小津安二郎という不世出の巨匠に対する敬虔なオマージュなどではない。そこにあるのは、かつて古典的映画言語の威光を傘に着て己の無内容な感性を虚飾した一人の西欧人監督による、哀れなまでに独善的で、グロテスクなまでに東洋を消費する「虎の威を借りる」精神的植民地主義の記録である。
そもそも、ヴェンダースが『東京画』において打った大博打の種明かしはあまりに浅はかだ。彼は小津安二郎という、日常の微細な祝祭性と静謐な諦念を極限の形式美へと昇華させた巨匠の権威を免罪符として振りかざす。それだけではない。ニコラス・レイやサミュエル・フラーといった、映画史の絶対的な神話的「父」たちの名をこれ見よがしに召喚し、彼らの影に隠れながら自らの薄弱な視線を正当化しようと画策する。しかし、その「映画狂(シネフィル)」的ポーズの裏側に透けて見えるのは、恐ろしく空虚な自意識過剰の残骸に過ぎない。
彼がレンズを向ける1980年代初頭の東京。バブル経済の熱狂へと突き進む都市の混乱は、ヴェンダースの手にかかると単なる「失われた理想郷の頽廃」という、手垢のついた西洋的ノスタルジーの生贄へと成り下がる。パチンコ店で無心に玉を弾く人々の群れを捉えながら、彼はナレーションで「これは原爆の記憶を忘却するための催眠的儀式なのだ」といった、寒気のするような大雑把で的外れな「精神分析」を押し付ける。食品サンプル職人が蝋でレタスを捏ね上げる作業を、あたかも解読不能なオリエンタル・ミステリーであるかのように奇怪な眼差しで眺め回す。ここにあるのは、観察対象への誠実な連帯や理解ではなく、異国を自らの感傷的な「ポエジー」を紡ぐための安直なセットとして利用する、浅薄なオリエンタリズムの傲慢さそのものである。
さらに見るに堪えないのは、自らを「知的な巡礼者」に見せかけるための演出の数々だ。電車の中で「映画は死んだ、小津の死とともに映画の聖性は潰えた」とポエティックな自己陶酔の単調な語りを垂れ流すその声の鬱陶しさはどうだ。さらにはヴェルナー・ヘルツォークを東京タワーに呼び出し、「もはやこの都市には本物の純粋なショットなど存在しない」と大真面目に嘆かせる道化芝居。まるで自分がジョン・フォードの西部劇だけを観て成長し、現代のニューヨークの路地裏やナイトクラブの狂乱をカメラで撮り集めながら「ああ、かつての開拓者精神は死んだ、アメリカは道を見失った」と詩的言語でポエムを詠み上げているような、身の毛のよだつほどの断絶と勘違いがここには充満している。
ヴェンダースは小津の映画観を決定的に誤解している。小津安二郎のカメラが捉えたのは、厳密な構図と圧倒的な職人技によって構築された「現在」であり、高尚な宗教的解脱でもなければ、西欧の観光客が夢見るような「美しき古き良き神秘の東洋」などではない。小津は泥臭い日常と、酒と、人間の哀歓を撮り続けた現実主義者であった。しかしヴェンダースは、畳の上の視線という形式的イデオロギーを「東洋的神秘」として還元し、自らの「映画という聖杯を探す悲劇の旅人」という自我を肥大化させるための小道具として小津を消費したのだ。
この『東京画』で極点に達した「珍奇な東洋を消費し、西欧のインテリが勝手に投影したノスタルジーで脱色する」という身勝手な欲望の構造は、40年の時を経て、近年の『PERFECT DAYS』へと一直線に結びついている。『東京画』でパチンコ屋や食品サンプルを物珍しそうに眺めていたあの「上から目線の観光客のカメラ」は、『PERFECT DAYS』に至って、完璧に無菌化された「労働の美化」と「安易なゼン・マスターの幻想」へと捏造の度合いを深めることになる。
西欧の批評家や映画ファンがこの『東京画』をありがたがって観賞するとき、彼らが消費しているのは日本の都市や小津安二郎の真実ではない。彼ら自身が頭の中で捏造した「失われたオリエンタルな精神性」という幻影であり、それを詩的な手触りでパッケージングしてみせたヴェンダースの、鼻持ちならない自恋のポーズなのだ。映画の「聖性」を謳いながら、その実、ひとつの文化と先達の権威を自らのエゴの燃料として使い果たしたこの映画は、ドキュメンタリーの名を借りた最も恥ずべきプライベート・フィルムの暴挙として、永遠に弾劾され続けなければならない。
前編において暴き出した『東京画』の構造的罪悪——巨匠の威光を乞食のように貪り、異国を自己の叙事詩(ポエジー)の背景として私有化する態度——は、中編に至ってますますそのグロテスクな本性を剥き出しにする。ここでヴェンダースが展開するのは、映画史の「父」たちを次々と自らのスクリーンの前に引っ張り出し、彼らの威光を背負うことで自らを「最後の純粋な映画監督」として演出する、正真正銘の「虎の威を借りる」政治学である。
映画の冒頭、唐突に挿入されるニコラス・レイやサミュエル・フラーといったアメリカン・シネマの不屈の闘士たちの幻影。彼らはヴェンダースにとって、単なる個人的なリスペクトの対象ではない。自らの映画的血統の正統性を補強し、自作の貧弱なヴィジョンを「失われた古典映画への哀悼」という高尚な文脈へすり替えるための、都合の良い装飾品(デコレーション)に過ぎない。小津安二郎を「映画史における唯一無二の聖遺物」と崇め奉る手口も全く同一である。ヴェンダースは小津を映画の神殿の頂点に奉り上げることで、その神殿に参拝する唯一の「信心深き巡礼者=自分」という悲劇的な自我のポーズを捏造してみせる。
しかし、その「巡礼」の実体があまりにも滑稽かつ貧相であることは、彼が小津の不朽の名作『秋刀魚の味』のオリジナル脚本を手に取った瞬間に露呈する。西欧のインテリ気取りで小津を熱弁し、その精神的継承者を自称していたはずのこの男は、その紙面に躍る日本語の文字を「ただの1文字すら読むことができない」のだ。言語的・文化的文脈へのリスペクトも、理解しようとする地道なアプローチも最初から放棄されている。彼にとって小津の脚本とは、解読すべきテクストではなく、自らの「東洋趣味(オリエンタリズム)」を満たし、カメラの前で崇高な表情を作るための「エキゾチックな骨董品」でしかない。
そして、この偽りの巡礼劇において、最も哀れで惨憺たる喜劇が繰り広げられるのが、ヴェルナー・ヘルツォークとの東京タワーでの合流シーンである。世紀末の都市の狂騒を見下ろしながら、ヘルツォークは「もはやこの地上には、純粋なショット、澄み切ったイメージなど存在しない」「透明な空間を求めて、火星か、あるいは衛星軌道上にまでカメラを持ち出さねばならない」などと、大真面目にポエティックな妄言を宣う。この二人のドイツ人監督が織りなす「世界に対する絶望」の道化芝居は、一見すると映画の未来を憂う悲壮な対話に見えるかもしれない。しかし、その実態は、自分たちの目の前に広がる1980年代の東京という現実、そこで生活し、息づく大衆の「生のリアル」に対する圧倒的な無知と無理解の露呈でしかない。
彼らは、パチンコ台に群がる労働者や、深夜の街をさまよう若者たちを、血の通った人間として捉えることを頑なに拒否する。彼らにとって東京の市民は、現代文明の頽廃と消費社会の奴隷化を証明するための「記号」であり、不気味で無機質な「人間型の背景セット」に過ぎないのだ。ヴェンダースのカメラは、彼らの表情や言葉の奥行きへと沈み込むことを決してしない。常に高所から、あるいは遠巻きから、観察者の冷淡で優越感に満ちた視線を投げかけるだけである。
ここに露わになるのは、西欧中心主義的な「脱色」の暴力である。小津安二郎の映画が持つ真の凄みとは、何気ない日常の佇まいや、家族という最小単位の制度の中に潜む「生の滑稽さと残酷さ」を、圧倒的なリアリズムと緻密な構図によって引き出した点にある。小津のカメラは決して高尚な宗教的解脱を撮っていたのではない。そこには酒の匂いがあり、下ネタの可笑しみがあり、時代の変化に取り残される小市民の哀歓があった。しかしヴェンダースは、その泥臭い人間味の全てを削ぎ落とし、「静寂」「禅」「東洋的神秘」という、西洋人が消費しやすい都合の良いステレオタイプへと小津を歪曲・脱色した。
ヴェンダースが映画の中で時折提示してみせる「小津の求道者」としての姿勢——例えば、小津の長年の伴走者であった撮影監督の厚田雄春や、主演俳優の笠智衆へのインタビュー——すらも、彼の自己満足のための道具として機能させられる。厚田が亡き小津への溢れる思いを抑えきれずに涙を流す奇跡的な瞬間においてすら、画面の主導権を握ろうとするのはヴェンダースの「自意識」である。カメラは対象の痛みに寄り添うのではなく、その涙を「自分が発見した高尚なドキュメンタリーの成果」として誇らしげに提示するのだ。
要するに、ヴェンダースが『東京画』でカメラに収めたのは、東京でもなければ、小津安二郎でもない。彼が撮ったのは、「小津という聖なる存在を理解できるほどに繊細で高尚な感性を持った自分」という、肥大化した自己愛の残像に過ぎない。この自恋の病理こそが、『東京画』を決定的に退屈で、鼻持ちならないホームビデオへと落としめている元凶なのだ。
そして、この「異国の現実を消去し、自らの美学の踏み台にする」という悪質なカメラの態勢は、半世紀の時を超えて、彼の最新作『PERFECT DAYS』において、より狡猾で無菌化された完成形として結実することになる。後編では、この『東京画』の残骸がいかにして『PERFECT DAYS』という「資本主義と新自由主義が夢見る極上の搾取幻想」へと地続きで繋がっているのか、その病理の核心を完膚なきまでに暴き立てる。
『東京画』において、1980年代の狂騒的な東京を「小津の神聖な精神性が頽廃した異界」として見下し、異国文化を勝手なノスタルジーで消費したヴェンダースのカメラ。その1985年の罪悪は、単なる一回性の失敗作として歴史の闇に葬り去られたわけではない。それから約40年の歳月を経て、その病理はより狡猾に、より徹底して無菌化された完成形として結実した。それこそが、映画『PERFECT DAYS』(2023)である。
『東京画』の残骸と『PERFECT DAYS』を地続きの構造として並べるとき、我々はヴィム・ヴェンダースという作家が全人生をかけて洗練させてきた「オリエンタリズムの極致」を目の当たりにする。『東京画』において、彼は街頭のパチンコ屋や食品サンプル職人を「理解不能で異様な東洋の奇景」としてカメラに収め、自らの詩的ナレーションの踏み台にした。そして『PERFECT DAYS』において、彼はそのカメラを現代の公共トイレ清掃員という労働現場へと向けた。
だが、そこに描かれているのは、労働者の生々しい苦悩や社会の理不尽ではない。描かれるのは、公衆トイレを徹底的にピカピカに磨き上げ、静かに古本を読み、カセットテープでルー・リードやパティ・スミスを聴き、木漏れ日(komorebi)に目を細める、完璧にロマンチシズム化された「無欲な聖者=平山」の姿である。
これこそが、新自由主義と資本主義社会が最も喉から手が出るほど欲している「都合の良い搾取のファンタジー」でなくて何だろうか。『PERFECT DAYS』が提示する世界観は、「低賃金で肉体労働に従事する貧困層であっても、個人の心の持ちよう(マインドフルネス)次第で、物質的豊かさを超越した『完璧な日々』を送ることができる」という、グロテスクな自己啓発的言説そのものである。
労働の過酷さや構造的な格差に対する問題提起はすべて消去され、労働者は「静寂と禅(Zen)の境地に達した浮世離れした哲人」としてパッケージングされる。『東京画』で「失われた古き良き日本」を勝手に嘆いていたヴェンダースは、『PERFECT DAYS』に至って、ついに自らの妄想の中にしか存在しない「完璧に無菌化された幻想の東洋人」をゼロから人工的に捏造してみせたのだ。
さらに反吐が出るのは、その「高尚な精神性」を裏付けるための小道具が、ことごとく西欧のインディーズ・ポップカルチャー(パティ・スミス、ルー・リード、パトリシア・ハイスミスなど)であるという事実だ。日本の下町で慎ましく暮らす清掃員が、西欧の老舗ロックや文学に深い理解を示した瞬間にのみ、その「魂の気高さ」が担保されるというこの視線。ここには、西洋の文化資本こそが人間を救済するという、無自覚で根深い文化帝国的傲慢さが隠すことなく剥き出しになっている。
若者世代や同僚の描き方にも、ヴェンダースの軽蔑的な視線が露骨に投影されている。スマホ中毒で目先の金や快楽に流される若い同僚タカシは、ストイックな平山との対比において「現代社会の頽廃が生んだ愚者」として滑稽に嘲笑される。しかし、現実に生き、悩み、もがき、他者と関わろうとするタカシこそが人間らしい生のリアリティを体現しているのであり、会話を拒絶し、黙々と便器を磨いて自己完結する平山の姿勢は、単なる「自己愛的なボヘミアンのコスプレ」に過ぎない。
物語の終盤、平山が実は裕福な実家を捨ててこの生活を選んだ「元・富裕層の道楽者」であったことがほのめかされるに至り、この映画の欺瞞は頂点に達する。彼は生きるためにトイレを清掃しているのではない。「貧困という過激なライフスタイル」を選択し、一時の精神的静寂を享受している富裕層の道楽者に過ぎなかったのだ。労働階級の現実に対するこの上もない侮辱と歪曲が、ここには平然と鎮座している。
『東京画』から『PERFECT DAYS』へ——。 1985年、ヴェンダースは小津安二郎という巨匠の威光を借り、ニコラス・レイやサミュエル・フラーの名を盾にし、映画の神聖な「父」たちの威厳にすがりつきながら、自らの貧相な自意識を飾った。そして2020年代、彼は「木漏れ日」や「禅」という、西欧人が大好物とするオリエンタルな記号と、西欧ロックのノスタルジーを掛け合わせることで、世界中のシネフィルと批評家たちを再びまんまと欺いてみせた。
彼が撮り続けてきたのは、東京でも、小津でも、日本の労働者でもない。常に「異国を舞台に、美しく高尚な詩人であり続ける自分自身」という、肥大化した自己愛の虚像(キッチュ)である。
映画史という名誉ある神殿において、小津安二郎が刻んだのは泥臭くも愛おしい人間の「真実の生の痕跡」であった。それに対し、ヴィム・ヴェンダースが遺したのは、巨匠の虎の威を借りて異国を消費し、自己陶酔のポエムを垂れ流し続けた、空疎な観光客の足跡に過ぎない。我々はこの洗練された植民地主義的カメラの偽善を徹底的に告発し、その無内容な虚飾を永遠に弾劾し続けなければならない。
(2026年 8月 21日 19時 31分 追加)
『東京画』という、映画の歴史に対する正視に耐え難い暴挙が世に解き放たれてから四十年余り。ヴィム・ヴェンダースという男が犯した罪咎の深さは、時が経つにつれて風化するどころか、近年の『PERFECT DAYS』という不気味なゾンビ的自我の肥大化によって、いまや決定的なグロテスクさをもって我々の眼前に結実している。
『東京画』——このタイトルからして、既に浅薄な詐術の匂いが漂う。観客がそこに期待するのは、昭和という時代を不器用かつ愚直に生き抜いた巨匠・小津安二郎への謙虚なオマージュであり、あるいは失われた日本の映画的コンテクストに対する客観的かつ静謐なドキュメンタリーであろう。しかし、スクリーンの幕が上がった瞬間に我々が目撃させられるのは、不快極まりないメロドラマティックな迷言の数々と、白人男性の自己満足に満ちたホームビデオに過ぎない。
画面に映し出されるのは、80年代の高度経済成長期を経て消費社会の狂騒に沸く東京の路上であり、そこに乗せられるのは、老衰した詩人の寝言のようなヴェンダース自身の自己模倣的なナレーションである。彼はあたかもハンター・S・トンプソン気取りのゴンゾー・ジャーナリズム的アプローチを気取り、自らの東京滞在記という極めて個人的な体験の枠組みの中に、小津安二郎という「聖域」を強引に引きずり込もうとする。だが、その実態はどうだ。脈絡もなく彷徨うカメラが捉えるのは、パチンコ店、竹の子族、蝋細工の食品サンプル工場、ゴルフ練習場といった、いかにも一歩引いた異邦人が「珍奇な東洋」として面白がるための、記号化されたオリエンタリズムの残滓ばかりではないか。
ヴェンダースは、自らがカメラで切り取った意味のない都市の断片と、映画史上最も純粋な形式美を誇った小津の幾何学的なフレームとを、強弁と屁理句によって結びつけようと画策する。しかし、その結びつきはあまりにも人工的であり、あまりにも強引だ。彼は「小津の探した東京は消えてしまった」と溜息をつき、あたかも自分が失われた理想郷の発見者であり、同時にその遺失を悼む唯一の理解者であるかのように振る舞う。
だが、冷静に考えてみよう。彼が提示する「小津の見た東京」とは何だったのか。それは現実の日本ではなく、西欧の映画マニアが勝手に作り上げた「純粋で、静寂で、慎ましい東洋」という歪んだ幻想に過ぎない。小津安二郎という映画監督は、決して仏教的解脱に達した高僧などではなく、酒を飲み、煙草をふかし、戦後の混乱と近代化の中で変容していく家族の姿を、どこまでも即物的に、冷徹なまでの職人芸で切り取った「映画の技師」であった。
それにもかかわらず、ヴェンダースは冒頭から小津を映画の「神聖なる宝」と祭り上げ、宗教的な不可侵領域へと封じ込める。この過剰な神格化こそが、オリエンタリズムの最も悪質な形態であることに、なぜ彼は気づかないのか。他者を「理解不能な高潔さ」へと昇華させることは、他者の歴史や生身の人間性を剥ぎ取り、自己の美学の道具として消費する行為に他ならない。
さらに哀れなのは、ヴェンダースが自らの美学の脆弱さを覆い隠すために、映画史に輝く威厳ある他の巨匠たちの威光を「虎の威」として借りてくる点だ。ニコラス・レイ、サミュエル・フラー、そしてジャン=リュック・ゴダール。彼は自らの探訪記の中に、あたかもシネフィル界の「知人の人脈」を誇示するかのように巨匠たちの影をチラつかせる。特に、同じドイツの鬼才ヴェルナー・ヘルツォークを東京タワーの上に引っ張り出し、高層ビル群を見下ろしながら「ここにはもう映画にするような映像はない、宇宙へ行くしかない」と大真面目にポーズを決めさせる場面の滑稽さはどうだ。ヘルツォークの過激な誇大妄想すらも、ヴェンダースの自己愛的な旅のアクセントとして回収され、浅薄な「近代批判」のダシに使われていく。
ヴェンダースが『東京画』で展開する「近代化され、アメリカ化されたことで日本は自らのアイデンティティを失った」という論調は、映画作家としても表現者としても驚くほど見識が浅く、かつ歴史的無知に満ちている。日本が戦後歩んできた消費社会化や西洋化のプロセスは、ヴェンダースが知ったかぶりで嘆くような、80年代に突如として起こった文化の衰退などではない。それは敗戦と占領史を通じて連綿と続いてきた社会的現実であり、小津自身もまた、その変容する日本の風俗(例えば『お茶漬の味』における競輪場やパチンコ、あるいは『秋刀魚の味』における戦後のポピュラー音楽の響き)を作品の中に克明に刻み込んでいたのだ。
小津の描いた世界を「普遍的な東洋の調和」などと誤読し、現実の80年代東京を見て「映画と違う」と落胆し、挙げ句の果てに「パチンコは核の恐怖を忘れるための精神的避難所だ」などというトンチキな社会学的妄想を垂れ流す。この上から目線の観光客的言説のどこに、映画への敬意があるというのだろうか。
彼は東京の街頭で迷子になった西洋の迷子であり、自らの無知を「詩的感性」という名の包装紙で覆い隠そうとしたペテン師に過ぎない。そして、この『東京画』で撒き散らされた「西洋人が解釈した、心地よい日本の虚像」という毒素は、四十年後の『PERFECT DAYS』において、より洗練された、それゆえに一層邪悪な「新自由主義的安らぎの kitsch(キッチュ)」として完膚なきまでに花開くことになるのである。
前編の結びに代えて言おう。我々が『東京画』において目撃するのは、小津安二郎の偉大さではない。自らの美学という狭小な鏡の中にしか世界を映し出すことのできない、一人の肥大化した西欧映画監督の、痛々しいまでの無知と傲慢の記録なのである。
『東京画』という欺瞞の構造を真に解剖するためには、ヴェンダースがそのカメラの前で「何を描かなかったか」、そして他者の権威をいかに身勝手に召喚し、消費したかを精緻に検証しなければならない。
本作がドキュメンタリーとして唯一、部分的な輝きを放つ瞬間があるとすれば、それは笠智衆と、小津の至高の映像を支え続けた撮影監督・厚田雄春に対するインタビューの場面のみである。しかし、この事実すらもヴェンダースの罪を深める根拠にしかならない。厚田がかつて小津と共に創り上げた「あの低いカメラポジション」について涙ながらに語り、三脚の構造やライティングの極意を愚直なまでに再現してみせる時、スクリーンには映画という芸術に対する崇高な職人魂と、途方もない人間的営みが立ち現れる。だが、ヴェンダースはこの至高の証言を目の前にしながら、自らの歪んだ「小津幻想」を1ミリたりとも修正しようとしないのだ。
西欧の批評家やヴェンダースのごとき浅薄な信奉者は、小津のローアングルを「畳の上に座る日本人の目線」という、安直でエキゾチックな「和の美学」へと矮小化したがる。しかし、厚田がカメラを据えて見せたその位置は、実際の畳の上の目線よりも遥かに低く、現実の物理的観察を超えた、極めて意識的かつ過激な「幾何学的・形式主義的選択」であった。現実に突きつけられたこの明確な反証を前にしてもなお、ヴェンダースのボソボソとした退屈なナレーションは「東洋の静寂」「神聖なる調和」といったオリエンタリズムのステレオタイプを反芻し続ける。目の前で語られる職人の生の言葉すら、自らの個人的なポエムの背景音としてしか処理できない男。ここにあるのは、観察者としての誠実さの欠如であり、対象に対する冷酷なまでの無関心である。
この「他者に対する無関心」と「自己の権威付け」という二重の悪徳を補強するために動員されるのが、シネフィル文化における権威たちの影だ。ヴェンダースは事あるごとに、ニコラス・レイやサミュエル・フラーといったアメリカ映画の巨匠たちの名を引く。かつて『ニックス・ムービー/ライトニング・オーバー・ウォーター』で死にゆくレイの姿をカメラに収め、自らの映画的血統の正統性をアピールしたように、彼は小津をも「自らの個人的な映画的殿堂」の一角へと閉じ込めようとする。
さらに決定的なのは、東京の街頭でクリス・マルケルと偶発的に(あるいは計算し尽くされた演出として)遭遇する場面だ。マルケルが『サン・ソレイユ』で提示した異文化に対する極めて多層的で鋭利な批評的視線と並べられた時、ヴェンダースの視線のスカスカな浅薄さは正視に耐えないものとなる。マルケルが記憶と時間の迷宮として都市を解体してみせたのに対し、ヴェンダースが持ち込むのは「古き良き日本の喪失」という、絵葉書レベルのノスタルジーに過ぎない。
ヴェンダースのカメラは、東京の路地裏で生きる人々を、まるで背景のビルや走る電車と同等の「無機質なセット」として写し出す。竹の子族の若者たちの狂熱も、ゴルフ練習場で機械的にクラブを振るサラリーマンの群れも、彼にとっては「アイデンティティを失い、アメリカ的消費主義に毒された哀れな東洋人」という、あらかじめ用意された結論を導き出すための標本に過ぎない。彼らの固有の生活や、その行動の背景にある戦後日本の生々しい社会動態に対して、ヴェンダースが本質的な好奇心を向けることは一度もないのだ。
映画の終盤、走行する電車の中で、ヴェンダースは「もはや映画は死んだ、小津の領域に達する映画など二度と現れない」といった趣旨の、自己陶酔的な敗北主義を朗々と語り始める。これほど映画という表現媒体全体、そして現代を生きるあらゆる映画作家に対する侮蔑が存在するだろうか。小津を「到達不能な神話」として崇めて見せることで、実は自分自身が現代の現実に向き合い、新たな映像を模索する苦痛から逃避しているだけではないか。小津の脚色原稿を手に取りながら、日本語の文字が一文字も読めないことをスカした態度で明かすあの場面に、彼の本質が凝縮されている。読めないのではない、読もうとしていないのだ。言語も、歴史も、人々の生活も学ぶことなく、ただ「記号としての小津」を抱きしめて自尊心を満たしているのである。
この『東京画』で見せた「他者の現実を消費し、自己の静かな精神世界へと逃避する」というヴェンダースのグロテスクな手法は、単なる80年代の一時的な迷走ではなかった。それは時を経て熟成され、現代の「新自由主義的セラピー文化」と共謀することで、さらなる怪物へと進化を遂げることになる。そう、中編の論旨を締めくくるにあたり、我々は逃れられない一つの惨劇に突き当たる。それが、2023年の映画『PERFECT DAYS』である。
『東京画』で「消失した」と嘆かれた小津的な清貧さと静寂は、四十年後の東京において、公衆トイレの清掃員・平山という記号的キャラクターの中に都合よく復元されることとなった。次編(後編)では、この『東京画』の妄執がどのように『PERFECT DAYS』へと滑り込み、現代社会の構造的格差や不条理を隠蔽するための「美しいキッチュ(kitsch)」へと完膚なきまでに結実したのか、その邪悪な構造を全面的に爆裂させていくこととしよう。
『東京画』という80年代の無自覚なオリエンタリズムの萌芽は、四十年という時を経て、より狡猾で、より洗練された政治的悪徳へと結実した。それが2023年の映画『PERFECT DAYS』である。『東京画』において「高度経済成長の狂騒によって喪失された」とヴェンダースが勝手に嘆いていた「小津的静寂」と「慎ましい日本の美」は、本作において、渋谷の公衆トイレを清掃する男・平山(役所広司)のストイックで修道士的な日常という形で、都合よく映画的フィクションの中に召喚される。
しかし、我々はこの「美しい映画」の皮を被ったグロテスクなキッチュ(kitsch)の正体を徹底的に暴かなければならない。
『PERFECT DAYS』が提示するのは、現代社会の過酷な労働環境や不可視化された階級格差、新自由主義がもたらした孤立という悪夢を、「個人の心の持ちよう(マインドフルネス)」という心地よいオブラートで包み隠す、極めて悪質な「自己啓発的セラピー文化」の神話である。映画の冒頭、平山が黙々と、ミリ単位の精度で便器を磨き上げる誠実な姿が映し出される。その横で、若き同僚・タカシはスマホを眺め、要領よく仕事をサボり、性欲や金に振り回される「浅ましい現代っ子」として徹底的に道化化される。ヴェンダースのカメラが向けるこのあからさまな道徳的優越感はどうだ。「会社や社会の都合に身を捧げず、自己の生活を楽しもうとする若者」を「くだらない世代の愚者」として冷笑し、黙々と便座を磨く労働者を「高潔な魂の持ち主」として神聖化する。これは経営者や新自由主義社会の支配階級にとって、これ以上ないほど都合の良い「奴隷の美学」の肯定ではないか。
さらに浅薄なのは、平山の「高潔さ」を補強するために動員される文化的小道具の数々である。パティ・スミス、ルー・リード、ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、カセットテープ、文庫本。これらはすべて、西欧の小市民的シネフィルやサブカルチャー層が「本物の文化」として手軽に共有できる、消費され尽くしたノスタルジーの記号(ネームドロッピング)に過ぎない。パンクでセクシーな若き少女が、平山の流すパティ・スミスのカセットテープに「感動」し、彼の頬にキスを贈る場面の気恥ずかしさはどうだ。これは老いた西欧男性映画監督の、痛々しいまでの自己愛的な「男の幻想(ボヘミアンな俺のセンスに若者がひれ伏す)」の垂れ流しであり、現実の若い世代に対する無理解の極みである。
そして物語の終盤、平山が実は裕福な実家の出身であり、自らの意志で過去の地位を捨てて清掃員という生活を選んだ「元・富裕層のボヘミアン」であることが示唆されるに及び、この映画の詐術は決定的なものとなる。彼は「明日をも知れぬ厳しい現実を生きる労働者」などではない。フェラーリを売って禅僧の真似事をしている、富裕層の気まぐれな道楽(コスプレ)に過ぎないのだ。ヴェンダースは「労働者階級も工夫次第で心豊かな生活が送れる」というポピュリズムを描いたのではない。「本物の教養を持った上流階級の人間だけが、清掃員という貧困労働の中でも美を見出すことができる」という、極めて選民思想的で無神経なメッセージを暗に発しているのである。
『東京画』から『PERFECT DAYS』へと至るヴェンダースの軌跡とは、結局のところ、何であったのか。
それは「現実の日本」や「生の人間」に対する批評的眼差しを一貫して拒絶し、自らの頭の中にある「神秘的で、静寂で、都合よくストイックな東洋」という虚像を、映画という媒体を使って消費し続けた四十年の歴史である。『東京画』において、彼は実在する80年代の東京を「小津の映画と違う」と不機嫌に突放した。そして『PERFECT DAYS』において、彼は現実の東京が抱える構造的不平等や社会の歪みから完全に目を背け、自らが創造した「理想的な東洋の隠者」を配置することで、完璧な箱庭を作り上げた。
ニコラス・レイやサミュエル・フラー、小津安二郎といった巨匠たちが死力を尽くしてカメラの前に捉えようとしたのは、人間が存在することの圧倒的な生々しさであり、時代や社会と対峙する表現者としての倫理であった。ヴェンダースは彼らの名を呪文のように唱え、その権威を身に纏うことで自らを巨匠の列に加えようとするが、そのレンズが捉えているのは常に、彼自身の肥大化した自尊心と、西欧中心主義的なオリエンタリズムの残滓に過ぎない。
木漏れ日(komorebi)の美しさに涙し、「今は今、次は次」などという自己啓発本レベルの陳腐な標語に感動している観客たちよ、目を覚ますがいい。我々がスクリーンの上に目撃しているのは、魂の救済でも、映画芸術の到達点でもない。現実の他者を奪い、歴史を奪い、異文化を自己の癒やしのための記号へと成り下がらせた、新自由主義時代における最も優雅で、最も邪悪なキッチュの狂宴なのである。ヴェンダースが神聖なる小津の遺産に塗りつけたこの浅薄な塗料噴霧罐/ 顏料液體 類型商品國際運送規定為危險物品,無法運送。を削ぎ落とし、映画という表現が本来持っていた過激で即物的な現実への批評性を取り戻すこと——それこそが、この退屈な映画的欺瞞に対する唯一の反逆である。