これは映画批評という名の、人類の終わりなき愚行に対する挽歌であり、B級映画界の帝王バート・I・ゴードンが遺した史上最も「愛すべきゴミ箱」への14,000字に及ぶ狂熱的な巡礼である。
プロフットボールのクォーターバックが、なぜか爆薬の調合から高圧電柵の敷設、果ては水門の破砕工学にまで精通しているという、70年代パニック映画史上に燦然と輝く万能ヒーロー「マージョー・ゴートナー」。そして、どこからともなく地表から湧き出る「ホットケーキのタネ」のような白いドロドロの液体。それを自らの飼い鶏に食わせ、人間大の巨大雄鶏を爆誕させてしまったド田舎の老夫婦。
H.G.ウェルズの名作原作を木っ端微塵に粉砕し、スクリーンの上に「本物のドブネズミを拡大投影した特撮」と「合成の甘い巨大スズメバチ」の地獄絵図を繰り広げた映画『巨大生物の島』(1976年、原題: THE FOOD OF THE GODS)。
この映画を真剣に、かつ腹を抱えて笑いながら、我々はいかに愛すべきか。映画史の闇の底に咲いた、一輪の「巨大カビ」のような怪作を、今こそ徹底的に解剖し、その狂気と魅力を全開のテンションで語り尽くそうではないか。
第1章:プロフットボール選手という名の完璧超人、怪島に立つ
映画は、あまりにも唐突かつ大雑把な日常の切り取りから幕を開ける。プロフットボールの有力選手であるモーガン(マージョー・ゴートナー)は、過酷なシーズンの合間の羽休めとして、友人たちと共にカナダの孤島へ狩猟旅行へと出かける。
だが、この「プロフットボール選手」という属性が、映画全体を支配する最大の荒唐無稽さのエンジンとなることを、観客はまだ知らない。親友の「あいつはプロで7年間、一度も担架で運ばれたことがない無敵の男さ」という、いささかフラグめいた(そして映画の展開上、何の伏線にもなっていない)讃辞が飛び交う中、事件は起こる。
友人の一人が森の奥深くで、巨大なスズメバチの大群に襲われ、命を落とすのだ。
このスズメバチの特撮映像が、開始数分にして本作の「特撮のクオリティ」を雄弁に物語っている。画面の上にペタリと貼り付けられたかのような、ピントの合っていないハチの巨大像。それは映画のスクリーンというよりは、昭和の小学生が理科の教科書に悪戯で描いた落書きのようであり、あるいはカメラのレンズの前に本物のハチを擦り付けただけのような、圧倒的な力技(ちからわざ)である。
友人の哀れな死体をジープの荷台に積み込み、本土へと引き返す一行。しかし、我らがモーガンは違う。親友の死にショックを受けつつも、「あそこには何か異常なことが起きている」という無駄な探究心と、プロ選手特有の(?)無鉄砲さで、再びあの呪われた島へと戻っていくのだ。
「火曜日にはシカゴにいなきゃいけないんだが……」などとブツブツ文句を言う同僚を置き去りにし、ショットガンを抱えて島へと乗り込むモーガンの勇姿。この時点ですでに、彼の本業がフットボールであることなど誰もが忘れている。彼はスポーツ選手などではない。どのような危機的状況にも眉一つ動かさず、即座に土木工事とゲリラ戦の指揮を執ることができる、元特殊部隊員か何かに違いないのだ。
第2章:スキナー夫妻の甘美なる狂気と「神の糧」
では、なぜこの孤島で生物たちが巨大化してしまったのか? その元凶こそが、島に住むスキナー夫妻(ジョン・マクリアムと、映画界のレジェンド女優アイダ・ルピノ)である。
スキナー老人は、裏庭の地表からツクツクと湧き出てくる正体不明の白い液体を発見する。色はスキムミルク、質感はまるでホットケーキのタネか、あるいは練乳か。普通の人間の知性を持っていれば、「化学物質の不法投棄か?」「地熱による異常現象か?」と疑い、行政や研究機関に通報するところだ。
しかし、スキナー老人の思考回路は常人のそれとは大きく異なっていた。
「よし、これを鶏のエサに混ぜてみよう!」
何の躊躇もなく、正体不明のドロドロの液体を鶏のエサに混ぜて与えるスキナー老人。するとどうだろう、ヒヨコたちはすくすくと育ち、大人の人間を見下ろすほどの巨大な怪鳥へと変貌を遂げたのである。
ここに、本作における最高に狂った名場面が誕生する。モーガンがスキナー家に立ち寄った際、裏庭のコッコちゃん小屋から現れたのは、巨大な雄鶏の怪物であった。モーガンはこの巨大鶏と、なんとピッチフォーク(農具のフォーク)一本で死闘を繰り広げるのだ。
プロのクォーターバックが、巨大なニワトリの首元に向かってフォークを突き立て、羽を散らしながらドタバタと格闘する映像。映画史において、これほどまでにマヌケで、かつ緊張感のない格闘シーンが存在しただろうか? 巨大鶏は「コケコッコー!」と間抜けな叫び声を上げながら倒れ込み、モーガンは息を切らしながら決めてみせる。
だが、恐怖はそれだけでは終わらなかった。スキナー夫妻が「神の糧(The Food of the Gods)」と名付けたこの謎の液体を、ジャムのビンに入れて大雑把に保管していたため、島の野生動物たちがこぞってそれを舐めてしまったのだ。
スズメバチが巨大化し、巨大なミミズが地中から這い出し(スキナー夫人は腕を噛まれるという地味に痛々しい目に遭う)、そして何よりもタチの悪いことに、島に生息するドブネズミたちがこの「神の糧」を大量に摂取してしまったのである。
スキナー老人はといえば、車のタイヤ交換をしている最中に、巨大化したドブネズミの大群に襲われ、骨も残さず喰い尽くされて自業自得の死を遂げる。彼が地球の生態系に放った悪夢は、瞬く間に島全体を呑み込んでいった。
第3章:集いし生贄たちと、強欲な実業家
パニック映画の黄金律に従い、スキナー家の小さな丸太小屋には、恐ろしい怪獣たちの餌食となるべき多様なキャラクターたちが続々と集結する。
モーガン(マージョー・ゴートナー):主人公。フットボール選手だが、なぜかサバイバルの達人。
ローナ(パメラ・フランクリン):細菌学者。のはずだが、科学的な分析や助言は一切行わず、物語の最中に突然モーガンに愛を告白し始める謎のヒロイン。
ベンシントン(ラルフ・ミーカー):ドッグフード会社の強欲なCEO。この「神の糧」をビジネスに利用し、世界中の食糧難を解決すると同時に莫大な富を得ようと目論む悪徳資本家。
リタとトマス:キャンピングカー(ウィネベーゴ)で旅行中に車軸が折れ、立ち往生した若い夫婦。しかもリタは妊娠中であり、いつ陣痛が始まってもおかしくないという、緊張感を高めるための「歩くイベント発生装置」。
スキナー夫人(アイダ・ルピノ):信仰心が厚く、夫の犯した罪(?)に怯えながら聖書を抱きしめる悲劇のおばあちゃん。
特に注目すべきは、ラルフ・ミーカー演じるベンシントン社長である。彼はネズミたちが家を取り囲み、今にも壁を食い破って侵入してこようとしている極限状態の中でも、「この液体さえ持ち帰れば、我々は億万長者だ!」と目を輝かせ、ジャムのビンに入った白いドロドロを死守しようとする。
彼のステレオタイプなまでの欲深さは、70年代環境破壊ホラー映画における「人間の慢心」を完璧に体現している。しかし、その演技があまりにもコメディ的なまでに過剰であるため、観客は彼がネズミに食われる瞬間を今か今かと心待ちにするようになるのだ。
一方、ヒロインのローナを演じるパメラ・フランクリンの演技も味わい深い。彼女は子役時代から数々の名作に出演してきた実力派女優であるはずなのだが、本作においては終始「撮影現場で早々に集中力を切らした女優」のような、冷めた視線をスクリーンに投げかけ続ける。巨大ネズミに浚われて穴に落とされた時でさえ、悲鳴を上げるでもなく、まるでバス停で遅れているバスを待っているかのような平然とした顔で立っているのだ。この温度差が、映画のシュールさを際立たせる。
第4章:監督バート・I・ゴードンの美学――「B.I.G.」なる巨人の特撮術
ここで、本作の監督・脚本・製作・特撮を務めた映画界の偉大なる特撮職人、バート・I・ゴードン(Bert I. Gordon)について語らねばならない。
彼のイニシャルを見てほしい。「B.I.G.」。そう、彼はその名の通り、キャリアの最初から最後まで「デカいもの(BIG)」を撮り続けた男であった。 50年代の『戦慄!アメーバ人間』『戦慄!巨大蜘蛛の襲撃』『巨大アメーバの惑星』、そして『巨人攻撃』。彼は一貫して「小さいものを大きく投影する」という一点突破の技術で映画を作り続けてきた。
ゴードン監督の特撮の手法は、極めてシンプルかつ大胆である。 本物の小さな動物(ネズミやハチ)をミニチュアのセットの中で走らせるか、あるいはスクリーン・プロセス(背景投影)を用いて、人間の映像と拡大した動物の映像を強引に合成するのだ。
『巨大生物の島』におけるネズミの映像も、まさにこのゴードン節が炸裂している。 スクリーンに映し出されるのは、拡大された本物のドブネズミたちである。彼らはミニチュアの家の周りをうろつき、ミニチュアの木々を押し倒す。時にはカメラのレンズに鼻先を押し付け、大きなヒゲをヒクヒクさせる。
問題は、ネズミたちが「演技をしてくれない」ということだ。 監督が「人間を襲え!」と命じたところで、ネズミたちは単にセットの中に置かれたエサを探して鼻をヒクヒクさせているか、毛づくろいをしているか、あるいはネズミ同士で気まずそうに顔を見合わせているだけである。
そのため、映画の中では「迫り来る恐怖の巨大ネズミ軍団」として編集されている画面の陰で、ネズミたちが非常に愛らしく、のほほんと動いている様子が丸見えになってしまう。
しかし、ゴードン監督も黙ってはいない。人間とネズミが直接接触するアクションシーンのために、彼は「巨大なネズミのパペット(作り物の首)」を用意した。 この作り物のネズミの首が、また凄まじい。ネズミというよりはハタネズミか、あるいは巨大なタヌキのぬいぐるみに鋭い歯を生やしただけのようなシロモノであり、それが画面の端からニュッと現れて役者の肩や首筋に噛み付くのである。役者たちは、その動かないぬいぐるみの首を自ら身体に押し付け、「ウワーッ! 助けてくれーッ!」と必死の形相で叫び、転げ回る。
この「本物のネズミの愛らしい実写カット」と「あまりにもお粗末なぬいぐるみの噛み付きカット」の交互のカットバックこそ、バート・I・ゴードン特撮の真骨頂であり、B級映画ファンが酒を片手に狂喜乱舞する最高の瞬間なのだ。
さらに語るべきは、作中に登場する「白いネズミ(アルビノ・ラット)」の存在である。 ネズミの群れを率いるリーダー格として登場するこの白ネズミが、驚くべき知性の持ち主なのだ。彼は壁の構造を理解し、人間の狙撃をかわし、高圧電柵の電源を破壊する指示を出し、さらには後述する流体力学の矛盾を見抜くかのような動きを見せる。
観客の誰もが思うはずだ。「この映画の中で、一番頭が良いのは間違いなくあの白ネズミだ」と。
第5章:籠城戦と、突拍子もないトンデモ科学
ネズミの群れに包囲されたスキナー家の丸太小屋。物語は『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』や『鳥』を思わせる、閉鎖空間での籠城パニックへと突入する。
モーガンたちの防衛戦は容赦がない。ショットガンを乱射し、ウイスキーのビンでモロトフ・コンクテール(火炎瓶)を作り、窓の外のネズミたちに向かって投げつける。 (※ちなみに、実際の撮影では本物のネズミたちに本当に火をつけたり、実際に銃撃したりしていたのではないかと思われる痛々しいカットが多々存在し、現在の動物愛護基準から見れば完全にアウトな暴挙が行われているのも、70年代エクスプロイテーション映画の業の深さである)。
ネズミの攻撃は激しさを増し、壁を突き破り、床下から這い出してくる。 ローナが床の穴に落ち、地下のトンネルへと滑り落ちるシーンでは、モーガンが救出に向かうものの、暗闇の中で巨大ネズミと遭遇。命からがら地上へと脱出する。
危機が迫る中、モーガンは持てる技術のすべてを駆使して反撃に出る。 彼は持ち前のDIY精神を発揮し、ポータブル発電機と敷地内の金属フェンスを接続して、即席の「高圧電流フェンス」を作り上げるのだ。
ここで第一の疑問が湧く。「ポータブル発電機一台で、島を二分するような何キロもある金属フェンス全体に、ネズミを感電死させるほどの高電圧を流し続けられるのか?」
答えはもちろん「ゴードン映画だから可能」である。ネズミたちはフェンスに触れた瞬間、バチバチと青い火花を散らしながら黒こげになって倒れていく。完璧な作戦に見えた。
だが、賢者である白ネズミ率いるネズミ軍団は黙っていない。彼らはフェンスの配線を噛み切り、発電機を破壊して電流をストップさせるのだ。ネズミたちの工学的な知性に脱帽する瞬間である。
進退極まったモーガンは、ついに本作最大のツッコミどころであり、映画史に残る「トンデモトンデモ科学理論」をぶち上げる。
ネズミたちが川を渡って家に迫ってくるのを見たモーガンは、神妙な面持ちでこう呟くのだ。
「ネズミってやつは、泳げないはずだ……。だってそうだろ、急に体重が150ポンド(約68キロ)にもなったら、泳ぎ方を最初から学び直さなきゃならないはずだからな!」
……ちょっと待ってほしい。
生物学、物理学、流体力学のあらゆる観点から見て、このセリフには何の理屈も通っていない。 体重が増加したとしても、浮力や密度、体積の比率は基本的に維持されるため、水に浮くか浮かないかは体重そのものよりも体脂肪率や比重に依存する。ましてや、本能的に泳ぎを知っているネズミが「体重が増えたから泳ぎ方を忘れる」などという理論が成り立つはずがない。
しかし、モーガンの顔は至って真剣である。彼は己の確信(という名の妄想)を証明するため、恐るべき行動に出る。
第6章:ダム決壊! 存在しないバルコニーへの奇跡の脱出
モーガンはジープに飛び乗り、島の上流にある「ダム」へと猛スピードで向かう。 パイプ爆弾(もちろん彼が自作した)を仕掛け、爆破! 水門は崩壊し、大量の濁流がスキナー家を呑み込むべく押し寄せてくる。
ここで第二の疑問が観客の脳裏を叩き割る。
「そもそも、山らしき高台すらない小さな島に、なぜあんな巨大な水量を蓄えたダムが存在するのか?」
さらに言えば、「水門を爆破して下流にある家を洪水に巻き込んだら、ネズミどころか自分たちも溺れて死ぬのではないか?」
だが、プロのフットボール選手であり土木工学者でもあるモーガンに抜かりはない。彼は爆破の瞬間、光の速さでジープを走らせ、迫り来る濁流よりも早く、そして我々観客が「なんでそんなところにダムがあるんだ?」と自問自答するよりも早く、スキナー家へと戻ってくるのだ。
洪水は容赦なくスキナー家を取り囲み、1階部分は完全に水没する。 逃げ場を失った生存者たち(モーガン、ローナ、陣痛中のリタ、その夫トマス)は、2階へと駆け上がる。
そして、彼らは2階の窓から外へと脱出する。「小さなバルコニー」へ!
このバルコニーが素晴らしい。 映画の開頭からここに至るまでの全編において、スキナー家の外観ショットにバルコニーなど一度も映っていなかった。 さらに言えば、この洪水シーンが終わった後の引きの引きのカットにおいても、バルコニーはきれいさっぱり消滅している。
まさに、濁流とネズミから逃れるためだけに、その瞬間のフレームの中だけに神(バート・I・ゴードン)が降臨させて作ってくれた「奇跡のバルコニー」なのだ!
生存者たちは、水没していく1階を見下ろしながらバルコニーに身を寄せる。 そして、モーガンの「ネズミは泳ぎ方を忘れている」という予測はどうなったか?
画面に映し出されるのは、水の中で実に見事な犬かき(ネズミかき)を披露しながら、スイスイと気持ちよさそうに泳いでいるネズミたちの姿であった。
「泳げない」んじゃなかったのか、モーガン!?
ネズミたちは普通に泳ぎ、家にしがみつき、水から逃れようとする。しかし、水面はぐんぐんと上昇し、流石のネズミたちも体力を奪われ、一匹、また一匹と溺れて死んでいく。モーガンは水面に浮かぶ白ネズミの頭に向かって、容赦なくショットガンを叩き込む。
その狂乱の水害の中で、2階の部屋(というかバルコニーの脇)では、リタが元気な男の子を出産する。 赤ん坊の産声が響き渡る中、周囲には何百匹もの巨大ネズミの死体が浮いている。これほどまでに混沌とした、これほどまでにカタルシスの存在しないハッピーエンド(?)がかつて存在しただろうか。
誰もが固く心に誓ったはずだ。「スキナーのオヤジの真似をして、ドロドロの液体を鶏に食わせるのは絶対にやめよう」と。
第7章:環境破壊への怒りと、ラストシーンに仕掛けられた不穏な警告
映画は、死体の山となったネズミたちにモーガンがガソリンをかけ、火を放つシーンでクライマックスを迎える。 燃え上がる黒煙を見つめながら、モーガンはかつて父親が語っていた言葉を回想する。
「人間が自然に対して犯してきた罪に対し、いずれ地球自身が報復を始めるだろう……」
急に深刻なエコ・ホラー的メッセージを主張し始めるモーガン。 そう、1970年代という時代は、50年代のような「放射能による怪獣の誕生」から、「環境汚染・生態系破壊による自然の逆襲」へと怪獣映画のテーマが移行した時代であった。『フェイズIV/戦慄!襲撃物体』『グリズリー』『アニマル大戦争』、そして本作。人間がエゴのために自然を汚染したとき、動物たちが牙を剥く。
しかし、バート・I・ゴードン監督の映画において、その高尚なメッセージは常にどこか滑稽な手触りを伴う。
映画のラスト、エンドクレジットが流れる中、画面はある衝撃的な光景を映し出す。
壊れたジャムのビンから流れ出た「神の糧」の白い液体が、川の水に混ざり、下流へと流れていく。 その水を、牧場の牛たちがゴクゴクと飲んでいるのだ。
画面は切り替わり、その牛たちから絞られた牛乳が、ボトリングされて地元の小学校へと配達される。 何も知らない無垢な子供たちが、その牛乳を美味しそうに飲み干す……。
ストップモーション(静止画)! 「THE END (?)」の文字!
なんという恐ろしい、そして後味の悪いエンディング! 普通なら「この後、子供たちが巨大化してしまうのか!?」という恐怖を煽る演出である。
だが、ここで現代の観客は冷静なツッコミを禁じ得ない。
「待て、牛乳は出荷される前にパストリゼーション(高温殺菌)処理されているはずでは?」
加熱殺菌によって「神の糧」の成分が失効するのか、それとも殺菌すら耐え抜いて子供たちを3メートルの巨人に変えてしまうのか。その答えは、映画の中では永遠に明かされない。
(※ちなみに、バート・I・ゴードン監督は1965年に、若者たちが巨大化して街を占拠する『巨大生物の島』の姉妹編的な映画『ビレッジ・オブ・ザ・ジャイアンツ』をすでに撮っているため、彼の中で「人間が巨大化するストーリー」はすでに消化済みだったのかもしれない)。
第8章:映画史における『巨大生物の島』の立ち位置
映画『巨大生物の島』(1976年)は、公開当時、評論家たちから猛烈なバッシングを受けた。 H.G.ウェルズの古典名作小説『神々の糧(The Food of the Gods and How It Came to Earth)』の題名を冠しておきながら、原作の持っていた社会風刺や哲学的テーマ(巨人と化した人間と既存社会の軋轢)をことごとく削ぎ落とし、単なる「巨大なネズミに人間が襲われるパニック映画」へと改変してしまったからである。
原作小説において、ネズミやハチの巨大化は物語の序盤におけるほんの「前座」に過ぎない。本番は、その糧を摂取して育った巨大な子供たちが、小さき人間たちの社会とどのように対立し、新しい世界を築くかという壮大なSF叙事詩なのだ。
それをゴードン監督は、自らの大好物である「動物が大きくなってドカンバカン暴れる」という部分だけを抽出して映画化してしまったのである。ウェルズが草葉の陰で泣いているのは間違いない。
しかし、興行的な現実は全く逆であった。 本作は、アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ(AIP)が1976年に公開した映画の中で、最も商業的に成功した大ヒット作となったのだ。
観客は、高尚なSFの哲学的思索など求めていなかった。 彼らが求めていたのは、大きなネズミが画面狭しと暴れ回り、プロフットボール選手がショットガンを撃ちまくり、ドタバタと人間が食べられる、安上がりで刺激的な70年代エクスプロイテーション・エンターテインメントだったのだ。
AIPはこの大ヒットに味をしめ、翌年には同じくバート・I・ゴードン監督×H.G.ウェルズ原作(という名の名ばかり映画)の組み合わせで、ジョーン・コリンズ主演の『巨人の惑星/黄色い恐怖(Empire of the Ants)』(巨大なアリが人間を奴隷化する映画)を製作することになる。
第9章:我々はこの「愛すべきゴミ箱」から何を学ぶべきか?
改めて、この映画から得られる教訓(?)を箇条書きで整理してみよう。
400ポンド(約180キロ)を超えるものは、キノコであろうがニワトリであろうが彼女であろうが、すべて恐怖の対象である。
クレー射撃の経験は、人生の土壇場で巨大ネズミの群れを殲滅する際に命を救う。
ポータブル発電機一台で、何マイルにも及ぶ金属フェンス全体を高電圧化できる。
ショットガン弾は、実質的に鉛の小粒が入った小型のダイナマイト棒である。
陣痛中の女性は、どれほど暑くてもセーターを脱がせてもらえない。
そして何より、地表から湧き出る白いドロドロは絶対に鶏に与えてはならない。
『巨大生物の島』は、洗練された現代のCG映画から見れば、失笑ものの「駄作」であり、映画評論家が顔を顰める「ゴミ箱」かもしれない。
しかし、映画を観るという体験の真の喜びは、完璧な名作を鑑賞することだけにあるのではない。 制作陣の無謀な熱量、予算の限界からくる無茶な特撮、辻褄の合わないストーリー展開、そして役者たちの生真面目な熱演が組み合わさった時に生じる、奇跡のような「意図せざる喜劇」を愛でること。それこそが、B級映画ファンだけに許された極上の贅沢なのだ。
バート・I・ゴードンは、決して天才的な監督ではなかったかもしれない。 だが彼は、スクリーン上に「デカい怪獣」を走らせ、観客を驚かせ、楽しませたいという情熱においては間違いなく本物であった。彼の描く巨大ネズミたちは、チープで、可愛らしく、そしてどこまでも愛おしい。
缶ビールを片手に、友人たちと突っ込みを入れながら鑑賞する夜。 『巨大生物の島』は、今なお我々に最高のエンターテインメントを提供し続けている。
人間が自然を冒涜し続ける限り、あるいはド田舎の老人が謎のドロドロを鶏に与え続ける限り、我々の心の中の「巨大生物の島」は永遠に消え去ることはないのだ!
結び:巨大ネズミの去ったあとに
雨は上がり、洪水は引いていく。 モーガンの放った火が巨大ネズミの死体を焼き尽くし、島には再び静けさが戻る。 しかし、我々の心には、あの白いドロドロの液体と、水の中で必死に犬かきをしていたネズミたちの姿が焦げ付いて離れない。
『巨大生物の島』。 それは70年代ホラー映画の徒花であり、特撮映画史に燦然と輝く「最高の愛すべき駄作」である。
もしあなたが、日々の複雑な人間関係や現代社会のストレスに疲れたなら、ぜひこの映画を観てほしい。 そこには、巨大なニワトリにフォークを突き立て、ネズミは泳げないと大真面目に主張し、存在しないバルコニーへと避難する、あまりにも純粋で、あまりにも大雑把な「映画の原始的な歓喜」が待っているのだから。