裏書ありますが、詳細不明
竹橋(竹橋御門跡)
観光スポット 史跡・碑 さくらの名所
北の丸東の出入り口で、1620(元和6)年、平川門と同じく仙台藩主伊達政宗らによって築かれた。天下祭り(神田明神と日枝神社の例大祭)の山車行列が通過したのもこの門だった。門は撤去されてしまったが、平川門へつながる細長い帯曲輪は健在。
御門を通る道は、桜田門外の変により一時閉鎖されるが、明治3年再開通し、今の通称代官町通りへと変遷する。沿道の様子は、時々の社会情勢を色濃く映し、戦後は、都心の交通・文化・観光のアクセスとして発展し、この地を巡る皇居周回ジョギングは、全国的な健康増進機運を高め、親しまれている。
現在のアーチ型竹橋は、大正15年、帝都復興事業で架設され、平成5年3月、周辺景観との調和や補強を目的に改修を受け、白・黒・桜のみかげ石の橋に、装いを新たにした。
竹橋見附門は、元和6年(1620)に枡形門が造られ、内郭の城門として警備にあたった。この地は、平川の旧流路で日比谷入江から内陸奥の船着場であった。竹橋とは、船付場に竹で組んだ「竹舟橋」と呼ぶ桟橋を設えていたことに由来する。竹平町から北の丸代官町に入る清水濠に竹橋は架橋されている。明和5年(1769)落雷によって、竹橋御門が火災を起こした記録がある。
竹橋事件(たけばしじけん)は、1878年(明治11年)8月23日に、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件である。竹橋騒動、竹橋の暴動とも呼ばれる。
背景
動機は、西南戦争における財政の削減、行賞についての不平であった。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したと言われていたためである。加えて兵役制度による壮兵制時代の兵卒への退職金の廃止、家督相続者の徴兵の免除なども不満として挙げられていた[1][2]。
7月上旬、かねてより士官に比べ兵卒の恩賞が極めて少ない事に不満を抱いていた近衛砲兵大隊第2小隊馭卒の長島竹四郎は、同馭卒小島萬助と増給を強請せんと論じた。続いて彼らは8月上旬、近衛歩兵第2連隊第2大隊第2中隊兵卒の三添卯之助と接触し[3]、近衛砲兵大隊第1小隊馭卒高橋小三郎、小川弥蔵、東京鎮台予備砲兵第1大隊の兵卒らとも接触した。反乱の機運は同予備砲兵第1大隊附内山定吾少尉、下副官梁田正直曹長、第1中隊平山荊火工下長(一等軍曹相当官)ら将校下士官も巻き込み、決起の計画が練られた。
近衛鎮台では将校や下士官への不信感から兵卒だけで決起せんとしていたが、東京鎮台予備砲隊では「近頃兵卒は何かと将校を軽蔑する節がある、理非の分別もなく百姓一揆の様な事を起こしては不都合である」との平山火工下長から内山少尉への提案により全隊が決起する予定となり[4]、大隊長の岡本柳之助少佐も決起には絶対反対と言う立場ではなかった[5]。このほか、近衛工兵中隊の第2小隊にも接触が行われているが、彼らは呼応には至らなかった。
旗を用いて合図を送ったり、「龍興」「龍野」等の暗号、「龍」→「龍起」[6]、「偶日」→「奇日」等の合言葉を作成する等、計画的なものであった。
内務省の判任官十等属・西村織兵衛は事件の起こる直前の夕方、神田橋の公衆便所で3人の近衛兵が便所の外で叛乱計画の謀議を行っている事を知り、内務省に立ち戻り大書記官武井守正に急を知らせた。この通報により蹶起計画は事前に漏れていたのだが、阻止することはできなかった[7]。
事件経過
午後11時、橋西詰にあった近衛砲兵大隊竹橋部隊を中心とした反乱兵計259名が山砲2門を引き出して蜂起し、騒ぎを聞いて駆けつけた大隊長・宇都宮茂敏少佐、続いて週番士官・深沢巳吉大尉を殺害した。
一方の東京鎮台予備砲隊は、岡本少佐が突如内山少尉の提案を退け静観の姿勢へと転換、午後10時飛鳥山への行軍を開始した。暴動発生後も参加を勧める部下を抑え、そのまま飛鳥山で宿泊した[5]。
砲兵隊の門前を出ると、既に近衛歩兵第1、第2連隊が出動しており、これと銃撃戦になった。戦闘に紛れて反乱軍は大蔵卿大隈重信公邸に銃撃を加え、営内の厩や周辺住居数軒に放火。この一時間にわたる戦闘で鎮圧軍側では坂元彪少尉ら2名が死亡し、4名が負傷。対する反乱軍側も6人が死亡し、70名以上が捕縛された。
この戦闘で小銃弾を大幅に消耗してしまった反乱軍は午後12時、やむをえず天皇のいる赤坂仮皇居へと向かい、集まる参議を虜らえようとした。この道中で、さらに20余名が馬で駆け付けた近衛局の週番士官の説得に応じて投降、営舍へ戻った。残る94名は仮皇居である赤坂離宮に到着すると、騒ぎを諌めようとした近衛局当直士官・磯林真三中尉に誘導され、正門へ到着し、「嘆願の趣きあり」 と叫んだ。
正門を警備している西寛二郎少佐率いる近衛歩兵隊が一行を阻止し、武器を渡せと叫ぶと、反乱側代表として前へ出た兵士は一瞬斬り掛る風を見せたが、士官の背後に近衛歩兵一個中隊が銃を構えているのを見て、士気を喪失し、刀を差し出した。続いて絶望したリーダー格の一兵士大久保忠八が銃口を腹に当てて自決した。これをしおに、残り全員が午前1時半をもって武装解除し投降。蜂起してからわずか2時間半後のことであった。
一方、東京鎮台予備砲隊では内山少尉が数名の部下を連れ赤羽火薬庫まで弾薬を取りに行くが、時既に暴動は鎮圧されていた[5]。
同日午前8時、早くも陸軍裁判所で逮捕者への尋問が始められた。裁判長は黒川通軌、評事山川浩中佐、権評事・伏谷惇および阪元純煕少佐、参座国司順正中佐、西寛二郎少佐、鑑岡信綱少佐、大島久直少佐がつとめ[8]、10月15日に判決が下された。
騒乱に加わった者のうち、三添ら55名は同日銃殺刑(うち2名は翌年4月10日処刑)、内山定吾少尉ら118名が准流刑(内山はのちに大赦)、懲役刑15名、鞭打ち及び禁固刑1名、4名が禁固刑に処せられている。士官でも岡本少佐のほか、近衛砲兵大隊第2小隊長[9]の津田震一郎大尉、松尾三代太郎騎兵大尉らが官職剥奪で除隊、甲斐宗義大尉が降官、川上親枝中尉、池田綱平少尉、松村恒久大尉らが停職となった[10]。事件に直接参加していない兵士、民間人1名を含め、全体で処罰を受けたものは394名だった。
影響
のちに日本軍の思想統一を図る軍人勅諭発案や、軍内部の秩序を維持する憲兵創設のきっかけとなり、また近衛兵以外の皇居警備組織として門部(後の皇宮警察)を設置するきっかけとなった。事件の内容は明治11年の各新聞に時系列を含めて詳細な行動が広く伝えられ、新聞社は号外も出したほどだった。陸軍省も竹橋事件についての発表を行い、各府県に通達し、それを新聞も報道している。近年では、行動の背景に自由民権思想の影響があったとも考えられている[6]。
江戸城(えどじょう)は、室町期から江戸期にかけて[1]、武蔵国豊嶋郡江戸にあった城。関東平野の南端、江戸湾の北隅に位置し、関東の陸上交通および水上交通の要の場所だった[1]。
江戸時代は江戸幕府の政庁が置かれ、徳川将軍家15代の居城だった。千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれた[1]。
日本一の大きさの、巨大な惣構えの城郭であり、濠が時計回りの渦巻状に幾重も巡らしてあり、場所は現在の地名で言えば、内郭部分が東京都千代田区[注釈 1]あたりだが、惣構えの城郭で肝心なのはむしろ外側の濠のほうであり、城の西側の端は真田濠さなだぼりであり現在の四谷付近(北半分が四ツ谷駅、南半分が上智大学のグラウンド敷地)[2][3]、惣構えの東側の端は隅田川であり、当初は防御のために意図的に橋をかけていなかった[4]。外堀の北端は飯田橋付近の牛込門(現在の牛込見附)であり、西から東に向かって流れる神田川に面しており[5]、江戸城の南端は虎ノ門見附であり、現在の虎ノ門駅付近であった[6][7]。[注釈 2]
概説
logo江戸城
(東京都)
別名 千代田城
城郭構造 輪郭式平山城
天守構造 ・1606年新築天守(解体、非現存)
連立式層塔型5重5階地下1階[8]
・1621年再築天守(解体、非現存)
独立式層塔型5重5階地下1階
・1635年再築天守(焼失、非現存)
独立式層塔型5重5階地下1階
築城主 太田道灌
築城年 1457年(長禄元年)
主な改修者 徳川家康、秀忠、家光
主な城主 太田氏(1457年-1486年、1561年-1577年)[1]
扇谷上杉氏(1486年-1524年)[1]
後北条氏(1524年-1561年、1577年-1590年)[1]
徳川氏(1590年-1868年)[1]
遺構 現存櫓・門、石垣・土塁・堀
指定文化財 国の重要文化財(桜田門、田安門、清水門)
特別史跡
再建造物 富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓
桜田巽櫓、大手門
位置
北緯35度41分17.97秒 東経139度45分15.72秒座標: 北緯35度41分17.97秒 東経139度45分15.72秒
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江戸城の位置(東京都内)江戸城江戸城
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江戸城の前身は、1457年に扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である(麹町台地の東端にあった)。
1590年に徳川家康が江戸城に入城し徳川家の居城となった。そのころは武蔵野台地の東端にある、いくつかの小さな建物から成る"城"(砦)で、東側のすぐ下に日比谷入江が入り込んでいた。徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利し征夷大将軍となり、江戸に日本の幕府が置かれると、諸国の大名を動員して巨大な濠と石垣を時計回りの渦巻状に巡らして日本一の巨大な惣構えを築くための大規模な拡張工事が、特に初代将軍徳川家康存命中の1603年(慶長8年)から10年の間に集中的に行われ、徳川秀忠が将軍の座を譲られ第二代将軍であった時期(1605年から1623年)、および第三代将軍徳川家光の代にも拡張工事が行われ、家光が将軍だった時期である1636年(寛永13年)に江戸城の西の端の外濠である真田濠の工事を完了したことで、巨大な惣構えの城が完成した。
これにより総構えの周囲約4里[9]、総面積が約20.82 平方キロメートル(2082ヘクタール)の巨大城郭となり、これは日本で2番目に広い大阪城の約5倍の面積であり[10]、日本最大面積の城郭になった[11]。
これを現代の距離や面積で表示すると、外郭は周囲約15.7キロメートル、東西が約5.45キロメートル、南北約3.82キロメートルあり、面積の"約2,082ヘクタール"というのは、現代の千代田区(1,166ヘクタール)の1.7倍の面積という巨大さだった[12]。
およそ260年にわたり、徳川幕府の政庁、15代におよぶ徳川将軍およびその家臣団が政務を行う場所となった。将軍は江戸城内に住み、将軍の家族女性らが住む大奥も設けられた。将軍の補佐役の老中やその下の若年寄などは月番制つまり月替わり制でそれぞれ数名が担当し、江戸城周辺の屋敷から日々登城(出勤)した[13]。
江戸城に出勤する役方と呼ばれる人々は老中や若年寄以外にも目付、奉行、小姓等々もいた。また江戸城には番方と呼ばれる警護・警備の仕事をする人々も必要で、一日を3分割して3交代制で勤務した。それらを合算すると日中の江戸城には五千人ほどの男性が常駐していたと推算され[要出典]、さらに大奥には幕末期で約1,000人、その以前の時期では600 - 700人ほどの婦女子がいたと言われている[14]ので、時間帯により人の出入りや増減はあるにせよ日中は六千名ほどが江戸城内にいたと推算される[要出典]。
竹橋(たけはし)は東京都千代田区北の丸公園にある橋である。清水濠の上に架り、一ツ橋一丁目と北の丸公園とを結んでいる。
概要
橋と名前の由来
徳川氏の関東入国以前にすでに存在していた。
竹橋の名は、竹を編んで渡した橋だったからすのこ橋あるいは竹橋とも[1]、また後北条家の家臣・在竹彦四郎が近在に居住しており「在竹橋」と呼んだのが変じたものとも言われる[1]。
『慶長江戸図』(通称:別本慶長江戸図)[2]には『御内方通行橋』と記してあり、主として大奥への通路に用いられたようである。
江戸時代は幕府の文書保管庫
徳川氏が江戸に入り、1603年(慶長8年)に幕府を開く前後から、この近くに、徳川氏以前のぶんも含めた行政文書類を保管する庫が建てられた[3]。これ以降、このあたりは幕府の文書保管庫として機能することになる。
江戸時代も中期を過ぎると、必要な書類を探し出すにもどこに何があるのか分からず、収拾がつかない状態になっていた。支配勘定の職にあった蜀山人大田直次郎は、1800年(寛政12年)、「御勘定所諸帳面取調御用」を命じられてこの整理に取り組むことになった[4]。
2月から10余人の同僚や部下と共に倉庫に入って整理し、4月中旬にはひとまず終わっているが、この作業の合間に、自ら有用と思った記録類を選択、収集し、その一部を3月に『竹橋蠧簡』5巻(5冊)、閏4月には『竹橋余筆』7巻(7冊)に編集している[4]。その後、『竹橋余筆別集』12巻(12冊)[5]がまとめられたので、1年未満の間に3部の資料集を編集したことになり、大田直次郎の有能さが示されることとなった[4]。
来る日も来る日も古書類と取り組んだようすを詠んだ歌が、「五月雨の日もたけ橋のほぐ(反古)しらべ今日もふる帳あすも古帳」である[6]。
収集・整理した原史料は、維新後に明治政府に移されたが、大半が散佚するか、関東大震災で焼失してしまっているので[7]、この3部は江戸幕府の財政・民政政策をうかがい知る貴重な歴史資料ということになる[4]。