青い瞳の諜報員(エージェント)、その名はニャンタッチャブル。
1965年、ウォルト・ディズニーの魔法工場(スタジオ)から世界中へ解き放たれた映画『シャム猫FBI/ニャンタッチャブル』(原題:That Darn Cat!)は、映画史に燦然と輝く「冷徹なる毛玉」の金字塔である。かつて無声映画の黄金期、そのあまりに不条理で縦横無尽な冒険によって全米の子供たち——そして何食わぬ顔をした大人たち——を狂喜乱舞させたブラック&ホワイトの珍獣、黒猫フェリックス(Felix the Cat)を覚えているだろうか? ウォルト・ディズニーの工房に棲まう極小の妖精(ブラウニー)たちは、あのフェリックスの悪魔的遺伝子を、あろうことか実写の『シャム猫』の中に極限まで濃縮・注入して見せたのだ。
スクリーンの向こうで優雅に毛繕いをするその気高きシールポイント・シャム猫——コードネーム「D.C.(Darn Cat / クソ猫、あるいはクソッタレ猫)」は、116分間にわたり、連邦捜査局(FBI)の精鋭たち、強盗殺人犯、嫉妬に狂うモテない男、そしてお節介な近所の老夫婦を完璧な「サル(Monkeys)」へと仕立て上げていく。まさに圧倒的な狂気! ダイナミックな喜劇的カタルシス!
この映画が与える映画的歓喜の深淵、そして「人間という愚かな種族」を冷ややかに見下ろす猫の眼光に秘められた神話的喜劇性を、我々は今こそ徹底的に解剖しなければならない!
第1章:一本の腕時計から始まる、狂気とカオスの大追跡
物語の幕開けは、極めてシンプルかつ古典的なサスペンスの構図をとる。だが、その糸を引くのが「一切人間の言うことを聞かない四本足の食いしん坊」であるという一点において、本作は映画史上のあらゆる犯罪映画(フィルム・ノワール)を根底から解体・再構築してしまう。
夜な夜な近所の家庭からサーモンの切り身を盗み、鴨の丸焼きをめぐって飼い主と本格的な引きずり合いを展開し、純白の珍しいファンテール鳩を追い回す無法者のシャム猫D.C.(演じるは、奇跡の名優猫シンバ。なんとあの大作『インク墨水為液體,無法國際運送,請下標前注意。レディブル・ジャーニー/驚異の旅』にも出演した、ハリウッド動物映画界の至宝である!)。ある夜、腹を満たすためだけに強盗団のアジトへと忍び込んだD.C.は、そこに監禁されていた銀行の女性出納係(演じるは『ダーク・シャドウズ』のジュリア・ホフマン博士役で知られるグレイスン・ホール!)と出会う。危機に瀕した彼女は、救出のメッセージ「HELP」の文字を爪で刻みつけた自らの腕時計を、D.C.の首に首輪代わりに巻きつけるのだ!
深夜、気まぐれに帰宅したD.C.の首元に輝く怪しい腕時計。これを発見したのが、両親の旅行中に家を留守番している19歳の妹パティ(ヘイリー・ミルズ)だ。妄想力と行動力が天元突破しているこの少女は、一瞬で事態の核心を見抜く。
「この時計は、ニュースで話題の連続銀行強盗&誘拐事件の被害者のものだわ!」
普通なら警察に電話して終わる話である。しかし、パティの行動力はFBIのドアを直接叩くことで炸裂する。彼女が選んだ担当捜査官は、猫アレルギーで重度のノイローゼ気味なイケメン捜査官ジーク・ケルソ(ディーン・ジョーンズ)。「我が校……いや我が局には犯罪情報を提供する市民を歓迎する伝統がある」とすまし顔のジークに対し、パティは猫の首輪から得た情報を叩きつける。
ここから始まるのが、J・エドガー・フーヴァー(当時のFBI長官)がもし生きていたら確実に脚本に赤字を入れて突っ返したであろう、全米捜査機構の威信をかけた「猫尾行大作戦」である!
「奴が行くところ、どこへでも追え!」という指令のもと、スーツを着分けたFBI捜査官たちが、ゴミ箱をひっくり返し、フェンスに引っかかり、水たまりにドボンと落ちながら猫の後を追う。この完璧な「エレガンス(猫)対 泥臭い無能(人間)」の対比! スラップスティック・コメディの金字塔と呼ぶにふさわしい運動神経が、ロバート・スティーヴンソン監督の冴え渡るカット割りによって爆発するのだ!
第2章:豪華絢爛たる脇役陣——不条理喜劇のオーケストラ
本作が単なる「可愛いペット映画」の枠組みを遥かに超越している理由は、名作『メリー・ポピンズ』を手掛けたロバート・スティーヴンソン監督とプロデューサーのビル・ウォルシュが配した、狂気的なまでに豪華なサイドキャスト(脇役陣)のアンサンブルにある。
映画のテンポを一切落とさず、追跡劇の合間合間に挟み込まれるオフビートな喜劇的スパイス。それらはまるで、上質な多段式ロケットのように観客の爆笑を連続で打ち上げていく。
1. 狂乱のドライブイン・シアターと「車なしの徒歩男」
本作における最高のコメディ・ハイライトの一つが、D.C.が暗闇に紛れて飛び込んだ「ドライブイン・シアター」での追走劇だ。 スクリーンではB級サーフィン映画『Night of the Surfer』が映し出され、若者たちが車内でイチャイチャしている。そこへ猫を追って単身徒歩で乱入するジーク捜査官(ディーン・ジョーンズ)。すかさずドライブインの支配人(名バイプレイヤーのリチャード・ディーコン!)が立ちはだかり、大声で叫ぶ。 「おい待てそこ行く男! 車なしで歩いて入れるか!!」 国家権力の最前線にいるはずのFBI捜査官が、映画館の支配人に怒鳴られ、車の間を這いずり回り、最後はスクリーン前で猫とパタパタ(pat-a-cake)の手遊び戯れを繰り広げる凄惨なまでの滑稽さ! この一連のシーケンスだけで、映画館のシートから転げ落ちるほどの爆笑が約束されている。
2. 覗き魔ババアと補聴器を切るジジイ:マクドゥーガル夫妻
隣の家に住むお節介焼きの監視魔、マクドゥーガル夫人を演じるのは、映画界の伝説エルザ・ランチェスター(『フランケンシュタインの花嫁』!)。そしてその夫を演じるのはウィリアム・デマレストだ。 ランチェスター演じるババアは、双眼鏡を手にランドール家を昼夜問わず覗き込み、「親がいない隙にあの娘たちは夜な夜な男たち(実際は潜伏するFBI捜査官たち)を引き入れていかがわしい宴を開いているわ!」と妄想を爆発させる。対する夫のデマレストは、妻がキンキン声でヒステリーを起こすたびに、無言で自分の補聴器のスイッチをカチリと切る。 このデマレストの演技! 彼が画面に映り、補聴器に手をやる一瞬の「静寂のリアクション」だけで、喜劇の神様が降臨したかのような爆発的笑いが生まれる。熟練のコメディアンによる至高の技である。
3. モテない男の哀愁:グレゴリー・ベンソン
姉のイングリッド(ドロシー・プロヴァイン)に気がある、すかした気取り屋の男グレゴリーを演じるのは、幼少期から天才子役として名を馳せ、後に『猿の惑星』のコーネリアスとして歴史に名を刻むロディ・マクドウォール! 彼は自慢の愛車をD.C.の泥足で汚され、自慢の珍種白化アルビノ鳩を脅かされ、さらにはFBIの捜査を「浮気相手との密会」と勘違いして空回りし続ける。大人のロマンスを気取りながら、その実、中身は完全に「お子様未満」というこの痛快なポンコツぶり。マクドウォールの高雅な顔立ちが崩れる瞬間の表情筋の動きは、まさに一見の価値ありだ。
4. 悪党コンビ:ネヴィル・ブランド & フランク・ゴージン
誘拐犯のコンビも素晴らしい。リーダー格のダンを演じるネヴィル・ブランドは、TVドラマ『スカーフェイス/アル・カポネ』でアル・カポネを演じたガチガチのハードボイルド俳優。その相棒イギーを演じるフランク・ゴージンは、後にTV版『バットマン』でリドラー(謎解き男)を怪演する怪優だ! 本物の殺意を持って女性を監禁している恐ろしい悪人であるはずの二人が、たった一匹のシャム猫の気まぐれな侵入と、ドタバタの事故によって追い詰められていく。リチャード・ウィドマークのパロディのようなゴージンの神経質そうなアクションと、ブランドの強面が崩れていく落差。Ed Wynn(エド・ウィン)演じる宝飾店主の儚くも天才的なカメオ出演も含め、キャスト全員が「本気のコメディ」を打ち上げているのだ!
第3章:ヘイリー・ミルズという太陽、そしてディーン・ジョーンズの開花
本作は、ディズニー実写映画の黄金期を支えた超重要アイコン二人の「歴史的交差点」でもある。
まず主演のパティを演じるヘイリー・ミルズ。彼女は『ポリアンナ』や『わな仕掛けの罠(親の設計図)』で世界中を魅了した天才子役から、19歳の魅力溢れる大人の女優へと脱皮する「過渡期の輝き」を放出している。 エネルギーに満ち溢れ、輝くばかりの清廉さを持ちながら、目的のためなら「FBIを騙すために偽の証拠を捏造する」ことも辞さないという、恐るべきちゃっかり感と行動力! この型破りなヒロイン像を、彼女は完璧な愛くるしさと疾走感で演じ切っている。
そして、対するFBI捜査官ジークを演じたディーン・ジョーンズ! 彼は本作の成功によってディズニー・コメディの「顔」となり、後に『ラブ・バグ』シリーズなどで一世を風靡することになる。本作における彼の役柄は、冷徹な国家権力の犬でありながら、猫アレルギーでクシャミが止まらず、ヘイリー・ミルズの突飛な発想に振り回され、捜査官としての尊厳を1秒ごとに削られていく男だ。 しかし、彼が見せる「滑稽でありながら、どこか誠実で捨てがたいハンサムさ」こそが、この映画のサスペンスとコメディのバランスを絶妙に繋ぎ止めるアンカー(錨)となっているのだ。
第4章:サスペンスとシネマ・ヴェリテの奇跡——猫は演技をしない
我々はここで、最も重要な事実に立ち返らなければならない。 「なぜ『シャム猫FBI』のD.C.は、これほどまでに魅力的であり、そして狂おしいほどにおかしいのか?」
その答えは至極単純だ。 この映画の猫は、一切「人間化(擬人化)」されていないからだ!
近年のCG技術や、過剰に吹き替えされた動物映画とは異なり、1965年のD.C.はどこまでも「本物の猫」としてしか振る舞わない。言葉を喋ることもなければ、カメラに向かってウインク墨水為液體,無法國際運送,請下標前注意。することもない。彼を動かしているのは、正義感でも、誘拐された女性への同情でもない。
「ただ、美味いサケ(サーモン)が食べたい」 「ただ、夜の街を散歩したい」 「ただ、目の前にいる愚かな犬や人間をバカにしたい」
この圧倒的な「無道徳(アモラル)」! D.C.は、FBIが自分を総力を挙げて尾行していることなど知ったことではない。気まぐれに屋根を飛び越え、通りすがりのノラ猫とイチャつき(CIAの査察によればケンブリッジ・ファイヴとの内通疑惑は否定されたが!)、気が向いたら木の上で眠りこける。
この「完全なる猫のリアルな生態」が、人間たちの「国家規模の大真面目な捜査」と衝突した瞬間、爆発的な喜劇の火花が散るのだ! クラーク・ゲーブルの全盛期ですら、これほど堂々と、これほど洗練された仕草で画面を支配したトムキャット(オス猫)は存在しない。青い瞳を輝かせ、誰の媚びも売らず、悠然と路地裏を歩くD.C.の姿は、まさに映画史に刻まれるべき「究極のエレガンス」なのである。
最終章:失われた「無垢と狂気」の時代へのオマージュ
原作者のゴードン夫妻(Mildred and Gordon Gordon)による小説『Undercover Cat』を、伝説の劇作家ビル・ウォルシュが見事に脚色した本作は、全米脚本家組合賞(WGA)ベスト・コメディ賞にノミネートされ、エドガー賞(ミステリー界の最高峰!)の最優秀映画賞にもノミネートされた。単なる子供向け映画にとどまらない、極めて精巧に組み上げられた「脚本の勝利」がここにある。
オープニング、ボビー・ダーリンが陽気に歌い上げるテーマソングに乗せて始まるアニメーションから、クライマックスの目まぐるしい追跡劇、そして見事な大団円まで、映画は観客を1秒たりとも飽きさせない。
現代の映画が失ってしまったもの——それは、純粋で、清潔で、それでいてどこか毒気とカラッとした狂気に満ちた「極上のファミリー・エンターテインメントの幸福感」だ。風呂上がりに温かいお湯が汚れを洗い流し、排水口へと吸い込まれていくのを見届けるときのような、あの爽快で誇り高い充足感!
ウォルト・ディズニー存命中の、あの魔法のような熱量が詰まった『シャム猫FBI/ニャンタッチャブル』。 スクリーンの中で気高く喉を鳴らすD.C.の「ニャー(Miaow)」という一言は、時代を超えて我々人間にこう問いかけているのだ。
「おい人間、たまにはその肩肘張った人生を捨てて、俺の後に続いてみろ。最高のサーモンと、最高にバカバカしい冒険が見つかるぜ?」