日本の映画史において、これほどまでに天才と狂気が背中合わせに走り抜け、そして時代の闇へと摩滅していった監督がほかにいただろうか。中平康――かつてフランソワ・トリュフォーに「『狂った果実』こそがモダン・フィルムの真の夜明けだ」と絶賛され、若き日の伊丹十三をしてその映画的スタイリッシュネスと才気に羨望を抱かせた男。パリのヌーヴェルヴァーグの先達たちすらも戦慄させたその鋭利すぎるカット割り、スクリーンに刻み込まれる疾走感、そして劇伴と映像が火花を散らす先鋭的なセンスは、昭和30年代の日活撮影所において異彩を放つ極光であった。
しかし、その才能の鋭利さは、同時に監督自身の精神と肉体を削り取る刃でもあった。日活での絶頂期を過ぎ、映画産業の斜陽化と自身のあまりに妥協を許さない性格、さらには映画製作の現場で増幅していく孤独と焦燥から、中平は徐々にアルコールと薬物の深い沼へと沈降していく。酒と睡眠薬に蝕まれ、錯乱と正気の狭間を漂いながらも、彼の内に渦巻く「カメラで世界を解体し、再構築する」という狂熱的な情熱が消えることはなかった。
その満身創痍の鬼才が、活動の場を日本から香港のショウ・ブラザーズ、そして1970年代の韓国へと移していく中で遺した、本国韓国においてすら鑑賞の機会が極めて限定されている幻影のような映画が存在する。それこそが、1974年9月6日に劇場公開された、ランニングタイム83分のアクション・サスペンス『青春不時着』にほかならない。
製作・申泰善(シン・テソン)、撮影・崔昇宇(チェ・スンウ)、そして監督・脚本クレジットにはキム・デヒ(金大熙)の名が記されている本作だが、その実態は中平康がかつて1958年に日活で放った金字塔的航空サスペンス『紅の翼』の、監督自身によるセルフリメイク・翻案というべき異作である。石原裕次郎が主演を務めたオリジナル版『紅の翼』は、まさに昭和30年代初頭の日本の高度経済成長前夜における熱気と、航空機のスピード感が融合した日本映画屈指のエンターテインメントであった。八丈島で命の危険に晒された幼い子供へ破傷風の血清を届けるという、タイムリミットが刻一刻と迫る絶対的なミッション。故障した大型機に代わり、命懸けでセスナ機を走らせる情熱のパイロット・石田(石原裕次郎)。その決死のフライトに同乗することになるスクープを狙う熱血女性記者・弓江、そして一見ただの気取った乗客でありながら、実は殺人を犯して逃走を図る冷徹な凶悪犯・大橋。密室と化した狭隘なセスナの操縦席で展開される心理戦、突風と悪天候が牙をむく太平洋上の緊迫感、そして途中の孤島へと強行着陸を迫る犯人との命懸けの攻防。
『紅の翼』において描かれたのは、危機に直面した人間たちが剥き出しにするプロフェッショナリズムと、裕次郎という太陽のごときスターが体現する「生への圧倒的な全肯定」であった。セスナ機が青空を切り裂くダイナミックなロングショッツと、緊張感で研ぎ澄まされたクロスカッティング。そこには、トリュフォーを唸らせた中平康の「空間と時間をテンポよく等分し、疾走させる」という映画的知性が完璧な形で結実していた。
しかし、それから16年の歳月が流れた1974年。ソウルの冷え切った撮影現場でカメラの横に立った中平康の視線は、かつての日活の寵児とは遠く離れた陰影を帯びていた。酒と薬で震える手、落ち窪んだ目、しかしその瞳の奥には、すべてを失った者が抱く執念のような炎が揺らめいていた。彼が韓国の地で解き放った『青春不時着』は、オリジナル版の物語骨格を忠実にトレースしながらも、その内部に宿る熱量と色彩、そして映画的肉質においては、異形の昂揚へと変貌を遂げていたのである。
物語の舞台は、韓国の孤島・欲知島(ヨンジド)。そこで「ミョンギル」という名の幼い少年が破傷風に罹り、死の淵を彷徨うところから運命の歯車が動き出す。この急報を受けた航空会社は、折しも欲知島行きの小型機をチャーターしていたチェ・ウォンジュン(徐美敬/ソ・ミギョン演じるヒロインと対峙する謎の男)という男とともに、新聞記者・キョンジャ(金玉真/キム・オクチン)を同乗させ、急遽血清を運ぶ決定を下す。機を操縦するのは、申栄一(シン・ヨンイル)演じる剛直で正義感に満ちた青年パイロット、イ・カンイルである。
だが、大空へと飛び立った機内で突如として戦慄の事態が発生する。同行者であるウォンジュンは、実は自社の社長を凄惨に殺害したばかりの逃亡犯であり、海外へ高飛びするために機体をのっとろうと企んでいたのだ。懐から突きつけられる黒光りする拳銃、怒号、そして「航路を変更しろ」という冷酷な脅迫。高度数千フィートのアジアの空で、血清のタイムリミットと銃口の恐怖が交錯する絶対絶命の密室劇の幕が上がる。
特筆すべきは、本作の映画的演出において強烈な印象を残す、うだるような暑さが嫌でも伝わる描写と、極限の密室空間が生み出す濃密なサスペンスである。直射日光が容赦なく降り注ぐ小型機の狭い操縦席。エアコンなど存在しない鉄とガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 の箱の中で、男たちの皮膚からは濁った汗が絶え間なく噴き出し、滴り落ちる。パイロットのイ・カンイル演じる申栄一の額から顎へと伝う汗の粒、追い詰められた殺人犯ウォンジュンの狂気を孕んだ目元に浮かぶ脂汗、そして恐怖に震えながらもカメラ(ペン)を捨てない女性記者キョンジャ役の金玉真の汗ばんだ首筋。中平はクローズアップを多用し、滴る汗の可視化によって機内の酸素が希薄になっていくかのような窒息感をスクリーンいっぱいに充満させる。それは単なる温度の描写にとどまらず、生死の境目に立たされた人間たちの生々しい生命の摩擦音そのものである。
さらに、特撮ファンやカルト映画愛好家の心を捉えて離さないのが、クライマックスや旋回シーンで差し挟まれる、どこか愛らしくも味わい深いミニチュア丸出しの航空機撮影である。CGなど影も形もない1970年代前半の韓国映画界において、ピアノ線で吊るされたと見紛うばかりの小型機の模型が、手描き感あふれる背景の雲海や荒々しい波頭のミニチュアセットの上を滑走していく。大人の鑑賞眼から見れば一目瞭然のその造作のチープさは、しかし、中平の計算し尽くされたカット割りと激しいカメラワーク、そして俳優たちの狂気的な熱演と交わることで、不思議なまでの超現実的リアリティを獲得する。まるで子供が夢の中で飛ばした模型飛行機が、そのまま地獄の嵐の中に巻き込まれていくかのような、歪んだ美意識と郷愁を誘う特撮シーン。これこそが、限られた予算と時間の中で映像を成立させようとした現場の生々しい執念であり、本作を唯一無二のカルト的輝きで満たしている要素にほかならない。
機内で繰り広げられる死闘は凄惨を極める。パイロットのカンイルと犯人ウォンジュンの激しいもみ合い。交錯する拳、狭い空間で暴発する命懸けの格闘の末、カンイルの機知によってウォンジュンは凄惨な最期を遂げる。しかし、カンイル自身も重傷を負い、意識は白濁し、視界は途切れ途切れとなっていく。急速に遠のく意識の中で、カンイルは絶望に直面した女性記者キョンジャに対し、掠れた声で必死に操縦桿の握り方、そして着の手順を教え込む。
「フラップを下げろ……速度を落とすんだ……!」
汗と血でまみれた操縦桿を握る女性記者の指先。窓の外には、荒波が打つ欲知島のいびつな海岸線と、ミニチュアの特撮で表現された危険極まりない着陸態勢の滑走路が迫る。あやうく地表に激突しかけながらも、滑走路上を狂ったように跳ね、泥と土煙を撒き散らしながら機体は奇跡的に不時着を果たす。届けられた血清によって、絶望の淵にあった少年ミョンギルの命は救われ、物語はカタルシスとともに幕を閉じる。
ここで注目すべきは、出演陣の異様な存在感と、その後の運命のドラマ性である。ヒロイン側を固める女優・徐美驚(ソ・ミギョン)は、1972年に「第1回ミス楽天」に選出されて脚光を浴び、1973年の『芳年18歳』での主演デビューに続き、1974年の本作『青春不時着』で若手映画女優としての確固たる地位を築いた人物である。後に『金斗漢』シリーズや『洪吉童』など数々の作品でスターダムを駆け上がった彼女は、1981年に絶頂期の中で突如として「留学」を理由に芸能界を電撃引退。その2年後の1983年、ロッテグループの辛格浩(重光武雄)総括会長との間に娘をもうけ、後年、巨額の資産相続やグループの経営を巡る法廷劇で36年ぶりに公の場に姿を現すことになるという、映画以上にドラマチックで波乱に満ちた人生を歩むこととなる。その彼女が1970年代前半のスクリーンで見せた瑞々しくも張り詰めた演技は、本作に可憐な華やかさと不穏な影を同時に添えている。
フランソワ・トリュフォーはかつて、中平の初期作品に見られる斬新な時間感覚とテンポの良さを指して、新しい映画の可能性を称賛した。だが、もしトリュフォーがこの1974年のソウルでひっそりと作られた『青春不時着』を目にしていたなら、彼は何と言っただろうか。そこにあったのは、かつてのスタイリッシュなヌーヴェルヴァーグの鋭気だけではない。敗北と孤立、薬物とアルコールによる肉体の衰弱、それらすべての地獄をくぐり抜けた者だけが到達できる、過剰で熱狂的な極限状態の美学である。
中平康は、自らの成功作である『紅の翼』の骨組みを借りながら、韓国という異郷の地で、汗と血の臭い立つ新たな『青春不時着』を創り上げた。石原裕次郎という太陽の光に満ちていた1958年の物語は、1974年のソウルにおいて、狂気と滴る汗、そしてミニチュアの儚い翼が交錯する特異な傑作へと奇跡的な転生を遂げたのである。この『青春不時着』というフィルムの溝には、身を苛まれながらもカメラのファインダーを覗く瞬間だけは世界を鋭敏に捉え続けた、一人の映画監督の命の火花が永遠に刻み込まれている。