アリスティーデ・マッサチェージ。この名を聞いて、映画の神に愛された男の姿を思い浮かべる者が世界に何人いるだろうか。しかし「ジョー・ダマト(Joe D’Amato)」と叫べば、世界中のB級映画狂、パチモン映画愛好家、そしてイタリアン・スプラッターの泥沼に足を取られた亡霊たちが、歓喜の血涙を流しながら一斉に立ち上がるだろう。
ジョー・ダマト。あるいはフェデリコ・スロニスコ、ミカエル・ウォトルバ、デヴィッド・ヒルズ、ケヴィン・マンキューソ、ジョーン・ラッセル、そしてラフ・ドナト……。幾千の偽名を使い分け、撮った映画の数だけ名義が存在すると言われた男。彼こそは、イタリア映画界が産み落とした最大にして最凶の「映画製造マシン」であり、シネマ界の百面相であった。
『ソランジュ/残酷な人妻』などで魅せた完璧な撮影監督としての顔。『悪魔の棲む館』や『エンブリヨ』でみせたホラー作家としての顔。狂気のカニバリズム超大作『エマニュエルとルビの食人族』、『アトロポファガス/人喰い男』、『超人ヘラクレス』、『エンドゲーム/アポカリプス・ウォリアーズ』といった、映画の倫理も予算も豪快に踏みみにじる狂熱の娯楽作品群。それだけではない。ジョージ・イーストマン、ミケーレ・ソアヴィ、ウンベルト・レンツィ、ルチオ・フルチ、クラウディオ・フラガッソといった、イタリア映画界の濃烈すぎるクセモノたちの裏でプロデューサーとして奔走し、挙句の果てには無数のハードコア・ポルノまでを手掛けた、正真正銘の映画狂人である。
そのジョー・ダマトが、あの『ジョーズ』のパチモン(シャークスプロイテーション)に手を染めていないはずがない。『ジョーズ』が1975年に世界中を震撼させて以降、イタリアの映画製作者たちはハイエナのようにその甘い汁に群がった。エンゾ・G・カステラッリの『ジョーズ・ジ・アンサー(L'ultimo squalo)』、果てはブルーノ・マッテイの『クルーエル・ジョーズ』まで、血に飢えた鮫と金に飢えたイタリア人が地中海を真っ赤に染め上げた。
そして、その末期症状として1989年(公開1990年)に世界へと解き放たれた極限の奇作。それこそが、映画『ディープ・ブラッド/復讐のシャーク』(原題:Sangue negli abissi / 英語題:Deep Blood)である。
公式上の監督クレジットは、ダマトの長年の協力者であるラファエレ・ドナト(ラフ・ドナト名義)となっている。しかし、真相は火を見るよりも明らかだ。監督経験の乏しいドナトが現場で「こんなの無理だ!」と早々に溺れかけたところを、裏で実権を握るプロデューサー兼撮影監督(フェデリコ・スロニスコ名義)のジョー・ダマトが、「貸してみろ!」とメガホンをひったくり、事実上の監督として10日足らずの突貫工事で完成させたのである。
本作は、イタリアン・ショック・ホラーの帝王が放った、あまりにも歪で、あまりにも愛おしく、そして腹がよじれるほどに狂った「サメ映画の皮をかぶった何か」である。我々はこの至高のB級金字塔に向き合い、その血塗られた(そしてケチャップとストック映像で塗られた)全貌を解明しなければならない。
第1章:ホットドッグとネイティブ・アメリカンと小児AIDS
物語は、フロリダの澄み渡る(あるいは、そう見せかけようと四苦八苦している)海岸から幕を開ける。
ビーチに集まった4人の少年たち。ミキ、ジョン、ジェイソン、そしてアラン。彼らは幼き日の無邪気さそのままに、手にはしっかりとソーセージ(ホットドッグ)を握りしめ、砂浜でパクついている。そこへ、何の前触れもなく、一人の男がフラフラと近づいてくる。
その男は、自らをネイティブ・アメリカンの聖なるシャーマン(呪術師)だと名乗る。しかし、どう見ても白人のオッサンが日焼けして怪しい服を着ているだけにしか見えない。彼(ヴァン・ジェンセン)は、怯える子供たちを前に、脈絡もなく重々しい口調で語り始めるのだ。かつてこの海を支配し、村々を全滅させたという悪霊の化身「ワカン(Wakan)」の伝説を。
ちなみに、Lakota(ラコタ)族の言語において「Wakan Tanka」とは万物に宿る偉大なる精霊を指す言葉なのだが、この映画の自称シャーマンにかかれば、単なる「人を食う黒い背ヒレの巨大サメ」へと成り下がる。大雑把にも程があるイタリアン・ダイナミズムである。
偽シャーマンは子供たちに、木彫りの魔除けと装飾された矢筒を授け、「いつの日か、お前たちがこの悪霊ワカンと戦わねばならない時が来る」と宣戦布告する。そして、子供たちに向かってこう促すのだ。「さあ、血の誓い(Blood Pact)を立てるのだ!」
少年たちは、何の疑いもなくポケットナイフを取り出し、自らの手首や指をスパッと切り裂く。そして、互いの生々しい血を混ぜ合わせるのだ。……正気か? 80年代末の衛生観念はいずこへ行ったのか。「ようこそ、小児AIDSと破傷風の恐怖へ!」と心の中で叫ばずにはいられない危険極まりない儀式である。彼らは切り傷から血を流しながら、魔除けやナイフを砂浜の穴に埋め、「いつか再び集まり、ワカンを倒す」と固い誓いを交わすのだった。
このオープニング、どこかで見たことがないだろうか? そう、スティーヴン・キングの『IT/イット』や『スタンド・バイ・ミー』である。ノスタルジックな少年の成長物語と、時を超えて蘇る古代の恐怖。ジョー・ダマトは、サメ映画の中に大胆にも「青春映画」の要素をブチ込もうとしたのだ。その試みが大惨事へと直結することなど、この時の彼らは知る由もなかった。
第2章:10年後の青年たちと、全否定される父親たち
それから10年の歳月が流れた。
かつての少年たちは、立派な(?)青年に成長していた。ミキ(フランク・バローニ)、ジョン(ジョン・K・ブルーネ)、ベン(キース・ケルシュ)、アラン(コート・マカウン)。彼らは夏のバカンスを過ごすため、思い出の故郷である海辺の町へと戻ってくる。
しかし、彼らはそれぞれに重苦しい家庭の事情とメロドラマ的葛藤を抱えていた。 ある者は、数年前に謎の死を遂げた弟のせいで心を閉ざしてしまった父親との関係に苦しんでいる。 ある者は、本人はプロゴルファー※請確認是否動物毛皮。動物毛皮製品屬於華盛頓條約条約牴觸物品,無法國際運送。になりたいのに、厳格な父親によって強引に陸軍士官学校へ入れられそうになっている。 またある者は、ただひたすら影が薄い。
演技指導などハナから放棄されているため、彼らのやり取りは学芸会以下の棒読み合戦である。ピノキオが人間になる前の木偶の坊のような青年たちが、重厚なドラマを演じようとすればするほど、画面には不条理な哀愁が漂う。彼らの見分けがつかなくなっても安心してもらいたい。イタリア映画の慈悲深き神(ダマト)は、視聴者が混乱する前に、そのうちの一人をサメの餌食にして人数を減らしてくれるのだから。
そして、ついに恐怖のサメ攻撃が開始される!
記念すべき最初の犠牲者は、イカダに乗って遊んでいた一人の女性である。彼女がサメに襲われ、海中に引きずり込まれる激しいショックシーン……のはずなのだが、岸辺で見守る彼女の幼い息子とプードル犬の反応が異常すぎる。母親が目の前で食われているというのに、まるで「ママが食パンの耳を切ってくれている」のを見るかのような、完全なる無表情と無反応。感情の欠落した子供と、あくびを噛み殺すプードル。この温度差に、観客の腹筋は早くも崩壊の兆しを見せ始める。
しかも、サメの攻撃シーンの描写がすさまじい。サメの姿など影も形もない。水中でダマト自身がラグーのパスタソース(あるいは市販のケチャップ)の瓶を開けたかのように、水面がうっすらとピンク色に染まるだけ。そして、サメの主観(POV)カットに切り替わるたびに、画面の端にはっきりと映り込む「スイミングプールのアクリル壁とタイル」。
そう、ダマトは海水浴場のシーンを撮りながら、サメ目線の水中撮影をローマの温水プールやニューオーリンズのアクアリウムの水槽で済ませていたのだ! 太陽光が燦々と降り注ぐ真っ青なプールの中で、カメラがすーっと泳いでいく。海の恐怖を描く映画で、プールサイドのタイルを見せつけられる観客の気持ちを考えたことがあるだろうか。
第3章:ストック映像の大海原と、伝説のヘリコプター説教
ジョンの死によって、物語は急展開を迎える。
友人ジョンが素潜り漁の最中に黒い背ヒレのサメに噛み殺された(水がピンクになった)ことで、残された3人——ミキ、ベン、アラン——は激怒。彼らは10年前に砂浜に埋めたあの魔除けのトテムを掘り起こし、亡き友の復讐を誓う。
ここから映画は『ジョーズ』のなぞり書きに拍車がかかる。 町の市長と警察署長は、観光被害を恐れてサメの存在をひた隠しにする。この警察署長の名前が「コーディ(Chief Cody)」なのが味わい深い。『ジョーズ』のブロディ(Brody)署長から一文字変えただけの、露骨極まりない偽名である。
だが、彼らの隠蔽工作も虚しく、サメの被害は拡大していく。しかし、画面に映し出されるサメの映像には、決定的な違和感があった。
サメが映るたびに、画質が劇的に変化するのだ。 あるカットでは透き通ったフロリダの青い海。 次のカットでは濁りきったミシシッピ川のような茶色い水。 その次は『ナショナル・ジオグラフィック』からそのまま盗んできたと思われる、超高画質のドキュメンタリー映像。 そして最後は、映画のプール撮影。
これらが数秒おきにガチャガチャと切り替わる目くらまし編集! 本作に使われているサメの映像の実に9割以上が、ドキュメンタリーの盗用か、あるいはエンゾ・G・カステラッリが1981年に作った伝説のパチモン映画『ジョーズ・ジ・アンサー(L'ultimo squalo)』からの「使い回しの使い回し」なのだ。イタリア映画界は、他人の映画をパクるだけでなく、自国のパチモン映画からさらにパチモンの映像をリサイクルするという、究極の持続可能(サステナブル)映画製作を実践していたのである。
そして、この映画最大の爆笑ハイライトが訪れる。
友人の仇を討つため、ボートに乗って海へ繰り出した主人公たち。そこへ、上空から警察のヘリコプターが旋回しながら近づいてくる。巨大なメガホンを手にしたコーディ署長(演じるトディ・バーナードの顔は汗でドロドロである)が、上空から若者たちに向かって怒号を浴びせるのだ。
「直ちに港へ戻れ! お前たちが何をやろうとしているか分かっているんだぞ! シェルビー、自分のしたことを恥ずかしいと思え(You should be ashamed of yourself)!」
……ヘリコプターを出動させてまでやることが、メガホンでの説教である。 サメを空から探すでもなく、救助網を投げるでもなく、ただ「恥を知れ!」と怒鳴り散らして去っていくヘリ。このシーンのくだらなさとシュールさには、腹を抱えて抱腹絶倒、ソファから転げ落ちるほどの衝撃を受ける。恥を知るべきなのは、このシーンを大真面目に撮って編集したジョー・ダマト本人ではないだろうか。
第4章:あまりにも無能なハンターたちと、爆破リサイクル
サメ退治のクライマックス。若者たちは、ベンのか弱き父親(船を持っている)と、かつて街で喧嘩した元不良のジェイソンを仲間に引き入れ、大量のダイナマイトを積んで大海原へと挑む。
ここで繰り広げられる「釣り」のシーンが、これまた酷い。 出演している役者全員が、生まれてこの方一度も釣竿を握ったことがないのが一目瞭然なのだ。リールの巻き方すら分からず、竿をぎこちなく振り回し、仕掛けを海水にボチャンと落とすだけ。サメという「太古の悪霊」に立ち向かうプロフェッショナル感がゼロどころかマイナスである。
さらに、映画のテンポを致命的に遅くするのが、エンドレスに続く「水中潜水シーン」だ。 ダイナマイトを仕掛けるため、若者たちが海に入る。そこから延々と、特に何も起こらない水中映像が流れ続ける。ナショナル・ジオグラフィックの余り物映像、ウミガメが優雅に泳ぐ姿、熱帯魚の群れ。 Carlo Maria Cordio(カルロ・マリア・コルディオ)による、緊張感の欠片もないエレピの脱力系BGM(ちなみに一部の曲は『キリング・バード』やウンベルト・レンツィの『ペドフィリア』からの流用)が重なり、観客を深い睡魔へと誘う。
そして、ついに訪れる最終決戦。 彼らはサメを洞窟へと誘い込み、ダイナマイトを爆破させて吹き飛ばそうとする。
サメが近づいてくる! ここでついに、本作のために唯一予算を投じて作られた「本物の小道具」が登場する。そう、「サメの頭部の精巧な(?)模型」である。 胴体? そんなものは作れるわけがない。だから画面に映るのは、不自然に水面から突き出たサメの頭だけ。その口がガクガクと機械的に開閉する。
そして……ドカン!!
サメが大爆発を起こし、海上に肉片と火柱が上がる! 悲鳴を上げる観客! しかし、80年代イタリア映画の通(つう)なら、この爆発シーンを見た瞬間に「デジャヴ」を覚えるはずだ。
「これ……『ジョーズ・ジ・アンサー』のラストシーンの爆破映像そのまんまじゃねえか!!」
そう、ダマトは最後の最後、映画の命運を分けるクライマックスの爆破シーンすら、カステラッリの『ジョーズ・ジ・アンサー』からフィルムを切ってそのまま貼り付けたのである! 自分の映画で作った模型すら爆破せず、他人の映画の爆破映像で済ませるという、徹底した省エネ精神。これぞジョー・ダマト。これぞイタリアン・ゴミ映画の真骨頂である。
第5章:ジョー・ダマトという病と、サメ映画の深淵
『ディープ・ブラッド/復讐のシャーク』とは、一体何だったのか。
ネイティブ・アメリカンの呪術的要素を取り入れ、「古代の悪霊がサメに宿る」という、現代で言えば『シャークトパス』や『フランケンジョーズ』の先駆けとなるような斬新なアイデア(フック)を用意しておきながら、本編ではその設定が一切活かされない。サメは単に「ちょっと黒い背ヒレを持った普通のサメ」として処理され、呪いも神話もどこかへ吹き飛んでしまう。
残されたのは、下手くそな素人役者たちによる退屈な家族ドラマ、まったく噛み合わないチープな音楽、プールで撮られた不自然な水中POV、そして申し訳程度に流されるケチャップ。
だが、だからこそ愛おしいのだ。
もし、この映画にジョージ・イーストマンが出演し、サメの体内から腹を突き破って生還するような大血戦が見られたなら、それは屈指のB級傑作となっただろう。しかし、ダマトが我々に届けたのは、予算も時間もなく、現場の混乱の中で力づくで撮り上げられた、あまりにも歪で人間味あふれる「パチモンの残骸」であった。
『ディープ・ブラッド』は、映画としての完成度は地獄の底にある。しかし、そこには間違いなく、80年代後半のイタリア映画界が持っていた「何でもいいから作って売れ!」という狂熱と血の匂いが漂っている。
ジョー・ダマトという男は、生涯で200本以上の映画を作った。名作もあれば、ゴミのようなポルノもあり、吐き気を催すスプラッターもあった。その巨大なキャリアの片隅に、ちょこんと残されたこの『ディープ・ブラッド』。
観終わった後、我々の心に残るのは徒労感と、なぜか込み上げてくる愛おしさ、そして「また騙された!」という妙な爽快感である。
サメ映画の歴史において、本作は決して光り輝く金字塔ではない。しかし、海流の底、光の届かない「深海(Deep Blood)」の泥の中で、怪しい光を放ち続ける奇妙な底生生物として、これからもB級映画狂たちの夜を優しく(そして滑稽に)照らし続けることだろう。我々は今日も、ダマトの仕掛けた血の罠に、喜んで飛び込んでいくのだ。