70年代パニック映画の黄金期において、映画史の片隅でドロリと異彩を放ち、観客の毛穴という毛穴から冷や汗を噴き出させた伝説の映画——それこそが、ジョン・“バド”・カルドス監督による1977年の怪作『巨大クモ軍団の襲撃』(原題:Kingdom of the Spiders)である!
「クモが嫌いな奴は見るな」なんて警告は愚の骨頂。クモ嫌いはそもそもタイトルに「クモ(Spider)」と入っている映画なんて見ない。だからこそ、ここで声を大にして訴えたいのは「クモなんてちょっと気持ち悪い程度かな」「足が8本あるだけの虫でしょ」などと高を括っている無防備な人々へ向けてである。断言しよう。この映画を観終わった瞬間、あなたは立派な、筋金入りの「重度アラクノフォビア(クモ恐怖症)」へと生まれ変わっているはずだ!
第1章:アリゾナの太陽と、あまりにも不吉なカントリーソング
物語の舞台は、アリゾナ州ののどかな田舎町ヴェルデ・ヴァレー。赤茶けた台地と広大な空、いかにも『駅馬車』の時代から時が止まったかのような雄大な自然が広がる美しき田舎町である。しかし、この平和な町に忍び寄る影があった。
主人公は、町の獣医であるロバート・“ラック”・ハンセン(演じるは、我らがウィリアム・シャトナー!)。「ラック」という、なんとも収まりの悪いニックネームを持つ彼は、典型的なカウボーイ風の地方獣医だ。ある日、地元の真面目な農夫ウォルター・コルビー(名優ウディ・ストロード)から「自慢の仔牛の様子がおかしい」と助けを求められる。ハンセンが駆けつけるも、仔牛は原因不明のまま急速に麻痺し、あっけなく息絶えてしまう。
首をひねるハンセンは、サンプルを州立大学に送る。すると間もなく、フラッグスタッフの大都市から、息をのむほど美しく知的な昆虫学者ダイアン・アシュリー(ティファニー・ボーリング)が派遣されてくる。彼女が突きつけた診断結果は、驚くべきものだった。
「この牛、超強力なタランチュラ毒の過剰摂取で死んでるわ」
なんと、通常なら人間を殺すほどの毒を持たないはずのタランチュラが、何らかの理由で極めて致死性の高い毒を体内に宿し、集団で家畜を襲い始めているというのだ。事態を重く見たハンセンとダイアンは、農場周辺を調査。そこで二人が目にしたのは、地面に無数に掘られた巨大なクモの巣穴(スパイダー・ヒル)と、そこに群がる膨大な数のタランチュラであった!
なぜ、単独行動を好むはずのタランチュラがこれほど密集し、集団で巨大な獲物を襲うのか? ダイアンの仮説はこうだ。 「人間が殺虫剤(DDT)を撒きすぎたせいで、彼らの本来の食料である昆虫が全滅したのよ。生き残るために、彼らは組織化し、より大きな肉——つまり家畜や人間を食料として狙い始めたの!」
自然の生態系を破壊した人類に対する、8本足の軍団による恐怖の逆襲が始まろうとしていた。しかし、折しも町は年に一度の大イベント「カウンティ・フェア(郡の共進会)」の準備で大忙し。観光収入に目をくらませた市長(ロイ・エンゲル)は、ハンセンたちの警告に耳を貸さず、「検疫なんてしたら祭りが台無しだ! 観光客が来なくなるだろ!」と一蹴する。どこかで聞いたような『ジョーズ』展開である。
市長の無策と人間の身勝手な都合を嘲笑うかのように、タランチュラ軍団はついに「人間」という最大の肉塊に向かって進撃を開始するのだった。
第2章:70年代パニック映画の狂気! 5,000匹の本物タランチュラと悲劇の出演者たち
本作を語る上で絶対に避けて通れないのが、CGなど影も形もなかった1977年当時、特撮チームが選んだ狂気の撮影手法である。
なんと本作、撮影のために本物の生きたタランチュラを5,000匹買い集めたのだ! 映画の総予算の実に10%が「タランチュラ出演料(購入費)」に消えたというのだから正気の沙汰ではない。当然、主役のウィリアム・シャトナーのギャラよりは安かっただろうが、現場の地獄絵図は容易に想像がつく。
しかも、タランチュラという生き物は非常に共食いをしやすい繊細な(そして身勝手な)キャストである。5,000匹の出演者(クモ)たちを現場で維持するため、スタッフは1匹ずつ個別の容器に分けて保管し、管理するという途方もない労力を強いられた。
さらに問題だったのは、タランチュラは本来とても臆病で大人しい生き物だということだ。映画のように「ウギャー!」と人間に向かって猛猛しく襲いかかることなど滅多にない。そこで現場の撮影スタッフがどうしたかというと、ドライヤーや送風機、空気チューブを使って、クモの後ろから風を吹き付け、無理やり人間に向かって這わせるという力技を敢行したのである!
画面上で人間たちにしがみつき、モゾモゾと蠢く大量のクモたち。あれは恐怖の演技というよりも、空気砲で吹き飛ばされて必死にしがみついているクモと、それに本気で引いている役者たちの生の反応なのだ。
そして、悲劇はクモの側にも起きた。70年代のエクスプロイテーション映画の例に漏れず、コンプライアンスなど皆無に等しかった当時、撮影現場では容赦ない惨劇が繰り広げられた。逃げ惑う町民の足元で「グシャッ」「ペチッ」と踏みつぶされるタランチュラたち。車に轢かれるタランチュラたち。殺虫剤を直接噴射されるタランチュラたち……。
「映画の撮影において、いかなる動物も傷つけられていません」という現代のハリウッドでお馴染みの注記文は、本作には100%適用されない。断言しよう。この映画の撮影中に、確実に数多くのタランチュラが命を落としている! クモ愛好家が見たらショックで倒れるかもしれないレベルで、画面上でリアルな命が散っていくのだ。
第3章:突っ込みどころ満載! ヴェルデ・ヴァレーの哀しき犠牲者たち
本作の魅力は、何と言っても「そこまでやるか!?」と突っ込まずにはいられない凄絶かつ笑える犠牲者たちの散り様である。
犠牲者第1号:あまりにも可哀想な黒人農夫ウォルター
最初に犠牲になるのは、前述の農夫ウォルター(ウディ・ストロード)だ。彼は7年間汗水流して育てた自慢の牛を失い、絶望に暮れる。演じるウディ・ストロードはマカロニ・ウェスタンでもお馴染みの名優であり、非常に重厚で尊厳ある演技を見せるのだが、脚本が彼に用意した運命はあまりにも残酷だった。
クモの巣穴を焼き払おうと燃やすものの、地底のトンネルから脱出したクモたちによって逆襲され、トラックの運転中に車内で大量のタランチュラに顔面を覆われる。パニックに陥ったトラックは崖を転落し、大クラッシュ。後で発見された時、ウォルターは全身を白く薄いクモの糸でグルグル巻きにされた「人間の繭(まゆ)」と化していた。7年間頑張った結果がこれである。哀愁を誘わずにはいられない。
犠牲者第2号:自爆する妻バーチの驚愕のリアクション
ウォルターの妻バーチ(アルトヴィース・デイヴィス/サム・デイヴィスJr.の3番目の妻としても有名)の最期は、映画史に残るお間抜け惨事だ。 夫が戻らず、家の中で一人怯えるバーチ。ふと見ると、部屋の壁や床にタランチュラが忍び寄ってくる。箒(ほうき)で外に掃き出せば済むものを、何を思ったか彼女はハンドガン(拳銃)を取り出し、至近距離でクモに向かって引き金を引く!
バン! バン! クモを撃とうとした弾は床を撃ち抜き、パニックになった彼女はあろうことか自分の指を銃で吹き飛ばしてしまうのだ! クモの毒で死ぬのではなく、クモへの恐怖で自傷事故を起こして自滅する妻。ネズミが出たらダイナマイトでも投げるつもりだったのだろうか。この惨状には、観客も開いた口が塞がらない。
犠牲者第3号:農薬散布機の男「バロン」と痛快な画伯センス
町の飛行士「バロン」(ジョー・ロス)は、市長の依頼を受けて農薬散布機(小型複葉機)で空中からクモの巣穴に毒薬を撒く任務に就く。 離陸前、バロンは気合を入れるためにコックピットの脇に「毛深いアメ玉」みたいな下手に描かれたクモのマーク(撃墜マークのつもり)を落書きする。このセンスがすでに不吉だ。
案の定、上空を飛んでいる最中に、コックピット内に潜んでいたタランチュラたちがゾロゾロと這い出してくる! 操縦桿を握る足元や手にクモが群がり、バロンは発狂。「うわあああ!」と暴れた結果、飛行機は制御を失い、町に向かって一直線。最後は激しい爆発とともに大クラッシュを果たす。この飛行機墜落シーンは低予算映画にしては無駄に迫力があり、8mm特撮と実写の組み合わせがどことなく往年のイタリアン・ホラー映画のような味わい深い爆発美を見せてくれる。
第4章:ウィリアム・シャトナーの超絶大演技と、クールすぎるヒロイン
さて、ここで我らが主演、ウィリアム・シャトナーの立ち振る舞いについて語らねばなるまい。
『スタートレック』のカーク船長として世界的に知られるシャトナーだが、本作での彼は「カウボーイハットをかぶり、ピックアップトラックを乗り回す型破りな田舎獣医」という役柄だ。彼が画面に登場するだけで、何かが起きる予感がする。
特筆すべきは、庭でクモの大群に囲まれた際の「シャトナー・ダンス」だ。 足元にひしめくタランチュラを踏まないように(あるいは踏みつぶしながら)、足を高く上げて「ヘイ! ホッ! うわっ!」と奇妙なハイステップを踏みながら逃げ惑うシャトナー。その顔芸たるや、後年のジム・キャリーも真っ青のオーバーアクション! 映画後半、宿館で大量のクモに取り付かれ、壁に背中をこすりつけながらクモを振り払うシーンのシャトナーは、間違いなく彼のキャリアにおける最高峰の怪演(あるいは珍演)と言えるだろう。
しかし面白いことに、全体を通してみると、シャトナーは意外にも「抑えめ」の演技を維持しようとしている節がある。それがかえって、彼の内に秘めたコメディセンスをじわじわと滲み出させる結果となっているのだ。
そして、この「大騒ぎするシャトナー」と見事な対比をなしているのが、ヒロインのティファニー・ボーリング演じるダイアン・アシュリーである!
彼女の登場シーンからして素晴らしい。ヒロイチノ(ヒッチコックの『鳥』)のメラニー・ダニエルズを彷彿とさせるような、ドライビンググローブをはめてオープンカーを飛ばす洗練された都会の女性。彼女は、シャトナーが露骨に男尊女卑的なフェロモンを振りかざして口説こうとしてきても、フッと鼻で笑って軽やかにあしらう。
圧巻なのは、彼女がホテルの部屋でシャワーを浴びている最中、デスクの上に巨大なタランチュラが忍び寄るシーンだ。恐ろしいライブラリー音源のサスペンス音楽が響き渡る中、シャワーを終えたダイアンがデスクに座る。クモに気づいた彼女はどうしたか?
悲鳴を上げる? 逃げ出す? いいえ。彼女はまるで「あら、可愛い子猫ちゃんを見つけちゃった」と言わんばかりの満面の笑みを浮かべ、素手で優しくタランチュラを拾い上げると、そのフサフサした背中を愛おしそうに撫で、そのまま窓からそっと外へ逃がしてあげるのだ!
かっこよすぎる……! 『スパイダー・ベイビー』のジル・バナーが奇跡的に生き残り、そのまま大学に進学してアラクノロジー(蜘蛛学)の博士号を取ったらこうなるのではないか、と思わせるほどの肝の据わり様。小柄なシャトナーを威圧する高身長と、どんなクモにも動じない知的な余裕。サイコトロニック(B級カルト)映画ファンが彼女に熱狂したのも当然である。
ちなみに、シャトナーの現実の妻(当時)であるマーシー・ラファー※請確認是否動物毛皮。動物毛皮製品屬於華盛頓條約条約牴觸物品,無法國際運送。ティが、ハンセンの義理の姉(未亡人)テリー役で出演しており、ハンセンを巡る三角関係(のようなもの)がほのめかされるのも、妙なリアル感があって味わい深い。
第5章:世紀の泥沼! カウンティ・フェアとパニックの頂点
映画の後半、物語のテンポは一気に加速する。
農薬散布機の爆破墜落によって町は大混乱に陥り、ついにタランチュラ軍団がヴェルデ・ヴァレーの市街地へと雪崩れ込んでくる。 路上を埋め尽くす黒い蜘蛛の群れ。悲鳴を上げて逃げ惑う町民たち。体にクモをくっつけた人々が右往左往し、パニックの中で車にはねられる市長、崩れてきた給水塔の下敷きになってあっけなく潰されるシェリフ(デヴィッド・マクリーン)……。
もはや警察も自治体も機能していない。人々は自暴自棄になり、足元のクモを踏みつぶしながら逃げ惑う。この群衆パニックシーンのワチャワチャ感は、実に「愛くるしい」としか言いようがない。明らかに「体にクモを付けられて痛がっているフリをしているエキストラ」が画面の端々に見受けられ、70年代B級映画ならではの温かみと微笑ましさが充満している。
そんな中、ハンセン、ダイアン、そしてハンセンの幼い姪リンドらは、町はずれにある木造のロッジ(ロスティックな観光コテージ)に逃げ込み、篭城を余儀なくされる。そう、ジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のゾンビを、そのまま大量のタランチュラに置き換えたクライマックスの始まりである!
ロッジの中に閉じこもる生存者たち。しかし、相手は体長数センチの隙間のプロフェッショナルだ。 ドアの隙間から、窓ガラス易碎品限空運,非易碎品可使用海運。 の割れ目から、暖炉の煙突から、ゾロゾロと忍び寄る8本足の刺客たち。
「エアコンの効きが悪いぞ?」と誰かが呟き、ハンセンがエアコンのダクトカバーをドライバーで外した瞬間——ダクトの中から大量のタランチュラがドバババッと雪崩のように頭の上に落ちてくる!
「知ってた!!」と観客全員が心の中で突っ込む、お約束にして最高の爆笑・絶叫ポイントである。クモたちは天井から落ち、壁を這い、電話線まで切断する(電話交換手がすでに繭にされているため、どのみち通じないのだが)。
ハンセンたちは家具で窓を塞ぎ、命がけでクモを払いけのけながら、暗く長い夜を耐しのぐ。
第6章:伝説のバッドエンディングと、幻の『巨大クモ軍団2』構想
そして明ける朝。 命からがら夜を生き延びたハンセンたちが、おそるおそるロッジのドアを開け、外を覗き込む。
そこで彼らが目にした光景——それは、映画史に残る鬱(うつ)バッドエンディングであった。
ロッジの建物全体が、白く分厚いクモの糸によって完全に覆い尽くされていたのだ。さらにカメラがズームアウトし、マットペイント(背景画)で描かれた町全体の全景が映し出される。 かつて平和だったヴェルデ・ヴァレーの町全体が、まるで巨大な白い繭の中に閉じ込められたかのように、巨大なクモの巣に覆われて静まり返っている……。
ラジオからは、外部の世界の呑気なカントリー・ミュージックが空しく流れ続ける中、画面は静かに静止し、スタッフロールへ。
「人間は敗北した。町は滅んだ」という、70年代環境破壊警鐘映画(エコロジカル・ドゥーム)特有の超絶絶望エンディング! この潔さ、この身も蓋もなさこそが、本作を単なるバド・カルドス監督の低予算映画から、永遠に語り継がれるカルト・クラシックへと昇華させた決定打なのである。
補天:実現しなかった「シャトナー監督・主演」の続編
この鮮烈なラストシーンは、明らかに続編(Sequel)の存在を予感させるものだった。実際、続編の構想は何度も持ち上がっていた。
1998年の『Fangoria』誌のインタビューでウィリアム・シャトナー自身が明かしたところによると、1980年代後半にあの伝説の映画会社「キャノン・フィルムズ」(正確にはメナヘム・ゴーランの21stセンチュリー・フィルムズ)のもとで、『巨大クモ軍団の襲撃2(Kingdom of the Spiders II)』の企画が進んでいたという。
なんと、シャトナー自らが監督・脚本・主演を務めるという胸熱すぎるプロジェクトだった! 業界紙に出された広告には、シャトナーの顔写真とタイトルロゴだけがドカンと掲載され、内容は「男が大量のクモで拷問される」という、メナヘム・ゴーランのハタリ商法そのものの適当さ。しかし残念ながら、会社側の資金難とドタバタ劇により、この「シャトナー監督版クモ映画」が陽の目を浴びることはなかった。
さらに2000年代に入っても、プロデューサーのアイゴ・カンターらが「先住民の神話と、超低周波音を使った政府の秘密実験によって狂暴化したクモが襲ってくる」という、さらに輪をかけて頭の悪い(褒め言葉)ストーリーで続編を企画していたが、こちらも立ち消えとなってしまった。
観たかった……! ヴェルデ・ヴァレーの惨劇の直後から始まり、シャトナーがクモ相手に監督采配を振るう完全なる続編を、我々は永遠に失ってしまったのだ。
終章:なぜ今、我々は『巨大クモ軍団の襲撃』を愛さずにはいられないのか
『アラクノフォビア』(1990)のような洗練された現代のアニマル・パニック映画や、CGIで滑らかに動く怪物映画に慣れ親しんだ現代の観客から見れば、『巨大クモ軍団の襲撃』のテンポは前半やや冗長に感じられるかもしれない。
バド・カルドス監督の演出はどこか長閑(のどか)で、冒頭30分は「牛が死んだ」「サンプルの分析結果を待とう」「ちょっとデートしようか」といった、のんびりした会話劇が続く。
しかし、一度クモたちが本気を出してからの怒涛の展開、本物のタランチュラ5,000匹が画面を埋め尽くす視覚的圧倒感、そして何より「絶対にクモになんか負けないぞ」と見せかけて見事に全滅する人間たちの愚かしさ。ここには、70年代映画だけが持っていた熱量と狂気が充満している。
タランチュラの毒は本来、ハチに刺された程度のものであり、彼らは非常に恥ずかしがり屋で大人しい生き物だ。映画の中で彼らが人間に襲いかかっているように見えるのは、裏でスタッフが必死に風を吹き付け、役者たちが自分からクモを顔になすりつけて大騒ぎしているからに過ぎない。
ベラ・ルゴシが映画『魔人ドラキュラ』やエド・ウッド映画でタコの大物小道具と一人で格闘していたように、ここにあるのは「映画としての嘘を、本気の演技と工夫で押し通す」という、古き良きB級映画の魂そのものである。
オープニングとエンディングに流れる無駄に爽やかなカントリーソング『Peaceful Verde Valley』の歌詞はこう問いかける。
"Will tomorrow bring the love we need To last for evermore?" (明日は、私たちが永遠に必要とする愛をもたらしてくれるのだろうか?) "Or could it bring the unknown That we've never seen before?" (それとも、見たこともない未知の恐怖をもたらすのだろうか?)
答えは決まっている。もたらされたのは愛ではなく、5,000匹のタランチュラだった。
ウィリアム・シャトナーのオーバーアクションを愛で、ティファニー・ボーリングのクールな美貌にシビれ、自爆する妻に腹を抱えて笑い、最後の真っ白なバッドエンドに愕然とする。これぞ映画体験の醍醐味であり、B級映画鑑賞という至高の娯楽の真髄である。
もしあなたが今夜、部屋の隅に小さなクモを見かけたら、笑って見過ごしてはいけない。 彼らは今この瞬間も、人間の散布した殺虫剤に怒りを燃やし、地下のトンネルで組織化し、あなたの家を白い糸で包み込む準備を進めているのかもしれないのだから……!