1970年代の映画史、あるいはアメリカ合衆国のポピュラーカルチャーにおける奇妙な悖論(パラドックス)から話を始めなければならない。第一次オイルショックの激震が世界中を駆け抜け、ガソリンスタンドには長蛇の列ができ、高速道路の法定速度が時速55マイル(約88km/h)へと一律に引き下げられた、まさにその鬱屈とした狂乱の時代。何を血迷ったかハリウッドの映画資本は、膨大な化石燃料を撒き散らしながら大集団で北米大陸を横断する「違法公道レース映画」を大量生産し、銀幕の上で無駄飯ならぬ「無駄ガソリン」を爆吐きさせていたのである。
その「ガソリン飢餓時代に咲いた狂い咲きの狂騒曲」の金字塔として君臨するのが、1976年に世に放たれた最高峰の自動車爆走活劇、映画『激走!5000キロ』(原題:The Gumball Rally)である。
後にバート・レイノルズが主演して世界的大ヒットを記録する『キャノンボール』(1981年)や、ロジャー・コーマン御大が仕掛けた不穏すぎる前脱線映画『キャノンボール/新・激走10000キロ』(1976年)など、同時代の競合作品は枚挙に暇がない。しかし、断言しよう。1970年代から80年代にかけて炸裂した「大陸横断B級爆走映画」という特異なジャンルにおいて、真に気品とユーモア、そして純粋なる「速度への狂熱」を美しく結晶化させたのは、後にも先にも本作『激走!5000キロ』をおいて他に存在しない。
本作は、単なる暇つぶしのB級コメディでもなければ、単なる70年代カルト映画の徒花でもない。これは、時代の抑圧に対する狂おしいまでの反逆であり、機械仕掛けの獣たちが奏でる交響詩であり、そして何より、狂気じみた情熱を抱えた愛すべき道化(ピエロ)たちへの壮大な讃歌なのだ。
「ガンボール!」――狂気が日常を打ち破る一瞬の魔法
物語の開幕は、息が詰まるような退屈な日常から始まる。巨大製菓会社の重役室。スーツを着込んだ男たちが、何の意味もないビジネスの数字や収支報告に終始し、あくびの出そうな退屈な会議を続けている。そのトップに君臨する男、マイケル・バノン(マイケル・サラザン)は、魂がどこか別の次元へ去ってしまったかのような空虚な目をしている。
その時、バノンは受話器を取り上げ、ある大学教授の電話番号をダイヤルする。受話器の向こうで真面目くさった講義の準備をしていたサミュエル・グレイヴス教授(ニコラス・プライヤー)に対し、バノンはただ一言、低く、しかし魔術的な響きを込めてこう呟く。
「ガンボール(Gumball)」
このたった一言。何の変哲もない「10セントのガチャガチャのガム」を意味する符牒が放たれた瞬間、暗号は全米各地のアウトロー、スピード狂、変人、大富豪、そして正気を失ったレース狂たちのもとへ光の速さで伝播する。
「ガンボール」――それは、ニューヨークの暗がりからカリフォルニア州ロングビーチの海岸線まで、北米大陸約3000マイル(約5000キロ)を最速で駆け抜ける、完全非合法・無法地帯の大陸横断レース開幕の合図なのだ。
この映画が与えてくれる最大の快感は、この「日常から非日常への鮮やかすぎる跳躍」にある。参加者たちに支払われる賞金など存在しない。勝者に贈られるのは、使い古された10セントのガムガチャガチャ本体(ガムボール・マシン)と、「俺たちが一番速かった」という他人に誇ることもできない密やかな栄光のみ。ルール? ルールなど存在しない。ただひとつ、「無関係な市民を巻き込むな」という無言のルール(それすら怪しいが!)を除いては。
深夜のニューヨーク、ビル街の静寂を切り裂くエキゾーストノート(排気音)。ガレージのシャッターが巻き上がり、暗闇の中にギラリと光る金属のボディ。このオープニングの高揚感だけで、車好き、映画好きの白血球は一気に沸騰する。
名車たちの神話学:V8の重低音とV12の悲鳴
本作を単なるコメディ映画から「自動車神話の聖典」へと押し上げている最大の要素は、登場するマシンたちの「あまりにも本気すぎる選定」と、そのリアルなエンジン音の咆哮である。
まず、主人公バノン率いる「コブラ・チーム」が持ち出すのは、1966年式 シェルビー・コブラ 427 サイドオイルー。美しくも狂暴な曲線を描くアルミボディに、7リッターの巨大なV8エンジンをぶち込んだ、文字通り「走る兵器」である。アクセルを踏み込めば、大気を揺らす地響きのようなV8サウンドがニューヨークのビル街にこだまする。
これに対抗する永遠のライバル、スティーブ・“スミッティ”・スミス(ティム・マッキンタイア)と、イタリア人のプレイボーイであるフランコ(ラウル・ジュリア)が駆るのは、ネイビーブルーの1974年式 フェラーリ・365GTB/4 デイトナ。V12エンジンが奏でる甲高くて官能的な叫び声は、コブラの重低音と対極を成し、まるで野獣と歌姫のデュエットのようだ。
この2台の怪物(コブラ対デイトナ)が、真夜中の誰もいないニューヨークのストリートや、夜明け前の高速道路でサイド・バイ・サイドのデッドヒートを繰り広げるシークエンス。スタントマン出身の監督チャールズ・ベイル(Chuck Bail)と、スタント・コーディネーターのエディ・ドノによる撮影は、現代のCGで塗り固められた映画では絶対に再現不可能な「質量と速度の生の恐怖と快楽」を見せつける。
実車が本物のスピードで街角をドリフトし、タイヤの焦げる煙が画面いっぱいに広がる。カメラは車体の低い位置に固定され、アスファルトが恐ろしい速度で後ろへと流れていく。この映像の力強さは、単なる「撮影技術」の域を超え、危険と隣り合わせのリアルな肉体運動としての映画の醍醐味を思い出させてくれるのだ。
そして登場するマシンはこれだけではない。
1974年式 ポルシェ 911 タルガ:金髪の美女コンビ(サザン・フラナリー&ジョアン・ネイル)が駆るドイツの精密機械。彼女たちはその美貌とボディラインを最大限に利用し、警察官を狂わせながら警察の手からすり抜けていく。
1970 1/2年式 シボレー・カマロ Z28:破天荒なスタントドライバー「ミスター・ガッツ」と、若きゲイリー・ビシー演じる田舎者のメカニック・ギブソンが乗り込む、アメリカン・マッスルカーの雄。
1971年式 ドッジ・ポララ 440 パトカー:あえてパトカーをそのまま偽装車として使用し、サイレンを鳴らしながら交通渋滞を優先通行でブチ破っていくという、警察の権力を逆手に取った最も狡猾で痛快なマシン。
これらのマシンが、それぞれ固有のエンジン音とスタイリッシュな走りを見せつけながら、アメリカ大陸という広大なキャンバスを爆走していく。
ラウル・ジュリアという奇跡:フランコ・バルトリーニの笑撃
さて、ここで本作における最大・最高・不滅の「笑い所」であり、映画史に刻まれるべきキャラクターについて熱弁を振るわなければならない。そう、後に『アダムス・ファミリー』のゴメス・アダムス役で世界中を魅了することになる名優ラウル・ジュリア演じる、イタリア人ドライバー「フランコ・バルトリーニ」である!
フランコは、フェラーリ・デイトナのステアリングを握るプロのレースドライバーであり、同時に「女性を口説くこと」を人生の至高の目的とする極度の好色男である。
彼がデイトナの運転席に乗り込んだ直後、伝説的な名シーンが生まれる。フランコは車内のバックミラーを手で掴むと、あっさりとそれを根元からバキッと折り取り、助手席の窓から放り投げ捨てるのだ。
パートナーのスミッティが「おい! 何をするんだ!?」と驚愕して叫ぶと、フランコは歯を見せて最高の笑顔を浮かべ、イタリア訛りの英語でこう言い放つ。
「イタリア人ドライバーの第一ルールだ。『自分の後ろにあるもの(過去や後方)など、何の重要性もない!』(What's behind me is not important!)」
この爆笑必至のセリフとアクション! 前だけを見据え、後ろから迫る警察も、過去の反省も、バックミラーと一緒に投げ捨てる。この一瞬で、映画のテンポと『激走!5000キロ』のテーマが見事に提示されるのだ。
さらにフランコの狂気(と可笑しさ)は留まることを知らん。時速200キロオーバーでフェラーリを飛ばしている最中であっても、隣の車線を走る車に乗っている美女を見つけるやいなや、レースのことなど瞬時に忘却の彼方へ吹き飛ばす。彼は目を見開き、手振りを交えて愛の言葉を叫び、高速道路上でナンパを開始する。
「マンマ・ミーア! あんな美しい女神を通り過ぎるなんて、男として、イタリア人として許されるはずがない!」
スミッティが「正気に戻れ! レース中だぞ!」と悲鳴を上げても、フランコはステアリングから手を放しかけながら、美女に向かって投げキスを贈り続ける。自動車に対する情熱と、女性に対する情熱が完全と同等、あるいはそれ以上に沸騰しているこの男の存在が、映画全体にえも言われぬ陽気さと熱狂をもたらしているのだ。ラウル・ジュリアの過剰なまでに情熱的で、どこか憎めないチャーミングな演技は、本作の価値を二倍にも三倍にも跳ね上げている。
個性派キャストが織りなす「狂気の人間模様」
フランコだけではない。『激走!5000キロ』に集結したキャラクターたちは、全員がどこか頭のネジが数本吹き飛んでいる。
1. 狂乱のハンガリー人騎士:ラップチック(ハーヴェイ・ジェイソン)
本作における陰の主役であり、セリフを一切喋らない(!)サイレント・コメディの体現者が、川崎重工のライムグリーン色に輝く大型バイク「カワサキ・マッハIII」に跨がる「狂ったハンガリー人(The Mad Hungarian)」ことラップチックだ。
彼は革ジャンの上に異様なヘルメットをかぶり、ひたすら孤独にバイクで爆走する。しかし、彼には悲劇的(かつ爆笑を誘う)な宿命がつきまとっている。それは「止まると必ずコケる」ということだ!
走行中は驚異的なスピードとテクニックを見せるのに、赤信号やちょっとしたハプニングで停車した瞬間、バランスを崩してズルズルとバイクごと横転する。何度倒れても、ボロボロになりながら立ち上がり、再びエンジンをキックして爆走を開始する。その姿はまるでバスター・キートンやチャールズ・チャップリンのドタバタ劇をモータースポーツに持ち込んだかのようであり、観客の腹筋を容赦なく崩壊させる。
2. 若き日のゲイリー・ビシーと「ミスター・ガッツ」
後に『リーサル・ウェポン』の宿敵役や『ポイント・ブレイク』の名脇役として怪演を見せるゲイリー・ビュシー。彼がまだ若く、弾けるようなエネルギーを撒き散らしていた頃の姿がここにある。
彼が演じるメカニックのギブソンは、コテコテのレッドネック(アメリカ南部の田舎者)で、四六時中ビールを飲み、下品なジョークを飛ばし、相棒の「ミスター・ガッツ」(ジョン・ダレン)を苛立たせる。シボレー・カマロのエンジンをカリカリにチューンナップし、荒っぽく大地を蹴立てて突き進む彼らの姿は、アメリカのストリート・カルチャーの生々しい泥臭さを漂わせていて、実に味わい深い。
3. 宿敵・ロスコ警部補(ノーマン・バートン)
爆走する無法者たちを追う執念の警察官、ロスコ警部補。演じるノーマン・バートンは、映画『007 ダイヤモンドは永遠に』などでジェームズ・ボンドの盟友フェリックス・ライター打火機,危險物品,運輸公司禁止運送,因此無法協助購買。を演じたことで知られる名バイプレイヤーだ。
ロスコ警部補は、全米のハイウェイ・パトロールと連携し、無線網を駆使して「ガンボール」の参加者たちを追い詰めようとする。しかし、彼の作戦はことごとく空回りし、乗っているパトカーは破壊され、ヘリコプターは混乱し、最後にはボロボロになりながら彼らを追い続ける羽目になる。彼の「間抜けだが、どこか憎めない真面目さ」が、無法者たちの疾走感をより一層引き立てる良質なスパイスとなっている。
アクションとギャグの華麗なる融合:痛快なカタルシス
『激走!5000キロ』が他のバイオレンス系レース映画と決定的に異なるのは、徹底した「明朗快活さ」と「ユーモアによる暴力の無毒化」である。
同時期に作られたロジャー・コーマン系の『キャノンボール』では、車が激突すれば爆発炎上し、人間が惨劇に巻き込まれる凄惨な描写や、サディスティックな殺伐感が支配的であった。しかし、『激走!5000キロ』の監督チャールズ・ベイルは、まったく異なるアプローチをとった。
例えば、キャンピングカーが花火店に突っ込んで大爆発を起こすシークエンス。普通なら大惨事である。しかし本作では、爆発の直前にキャンピングカーに乗っていた3人の人間が間一髪で地面に飛び出し、まるで整列した器械体操の選手のように綺麗に地面に横一列になって倒れ込む。そして、彼らの頭上で色鮮やかな花火がバチバチと打ち上がるのだ!
あるいは、バイクに乗ったラップチックがランプ(ジャンプ台)を駆け上がり、巨大な道路標識(看板)を突き破って空を飛ぶシーン。彼が突き破った看板に書かれていた文字は――「列車旅はいかがですか?(Travel by Train)」!
これらのクラシックなカートゥーン(アニメーション)的ギャグセンス、サイレント映画の伝統を継承した「視覚的ギャグ(Sight Gags)」の数々は、殺伐としがちな暴走行為から陰惨さを綺麗に洗い流し、観客を純粋な「底抜けの楽しさ」へと誘う。
さらに、ロサンゼルスの巨大なロサンゼルス川(コンクリートで固められた巨大な排水路)での追撃戦! 映画『ターミネーター2』や『グリース』でも有名なあのロケーションで、シェルビー・コブラとフェラーリ・デイトナが、コンクリートの斜面を滑りながら時速100マイルオーバーでデッドヒートを繰り広げる。
水しぶきを上げ、タイヤを空転させ、互いのボディが擦れ合うかのようなギリギリのバトル。スタントマンたちの血と汗が画面から直接匂い立ってくるような、本物のスタントアクションの連続に、息をのむのを忘れて見入ってしまう。
終着点ロングビーチでの奇跡:レースの先にあるもの
ニューヨークを出発し、広大なアメリカ大陸の砂漠を越え、山脈を抜け、警察の網をかいくぐり、ついに一行は最終目的地であるカリフォルニア州ロングビーチの海岸線へと到達する。
3000マイルに及ぶ狂気の疾走の果てに待っていたのは何か?
ゴール地点で待つのは、大熱狂の観客でもなければ、眩いスポットライトでも、巨額の小切手でもない。ただの静かな海と、朝日を浴びる砂浜、そしてぽつんと置かれたガムボール・マシンである。
真っ先にゴールラインを駆け抜けるのは誰なのか? コブラか、デイトナか?
ここで詳細な結末を明かすことは避けるが、映画のクライマックス、命を削るようなバトルを終えた男たちが、泥と油にまみれた愛車のボンネットに腰掛け、お互いの健闘を讃え合って静かに煙草を吸い、ガムボール・マシンから転がり出た10セントのガムを口に放り込むシーンの美しさは格別である。
そこには、資本主義的な勝敗を超越した「純粋なプレイ(遊び)」の終わりが描かれている。彼らは金を儲けるために走ったのではない。有名になるために走ったのでもない。ただ、「自分たちの生を実感するため」「退屈な日常にド派手な風穴をあけるため」だけに、ガソリンを焚き、命を燃やしたのだ。
そして、疲れ果てた男たちの元へ、ボロボロになったパトカーでついに追いつくロスコ警部補。彼は全員を逮捕しようと警察手帳を掲げるが、すでにレースは終わっている。無法者たちは爽やかな笑顔で彼を迎え、冷えたビールを手渡商品有可能只能自取,自取費用相當高,請查看頁面確認す。
その時、誰かが再び、悪魔的で魅力的なあの言葉を呟くのだ。
「……なぁ、次は『ロサンゼルスからニューヨーク』へ戻るレースをやらないか?」
その言葉を聞いた瞬間、ロスコ警部補の顔に浮かぶ、絶望と、そして微かな狂気の笑み! 映画は最高の余韻を残しながら、エンジン音と共に幕を閉じる。
結語:なぜ今、我々は『激走!5000キロ』を観るべきなのか
現代のモータースポーツや自動車文化は、環境配慮、自動運転、安全基準の強化、そして効率性の追求によって、かつてないほど「清潔で正義感に満ちたもの」となった。もちろん、それは社会の進歩であり、素晴らしいことである。
しかし、だからこそ!
我々の胸の奥底には、時に理不尽で、暴力的で、無意味で、しかし圧倒的に自由だった「あの頃の狂気」への郷愁が、消えせぬ火種として残り続けているのではないか。
1976年に制作された『激走!5000キロ』は、まさにその「人間の生々しい欲望と、機械への狂熱が横溢していた時代のタイムカプセル」である。
この映画には、難しい説教も、複雑な伏線回収も、高尚な哲学もない。あるのは、最高にクールなマシンと、最高にイカれた人間たち、そして最高に痛快なスピード感だけだ。
ポップコーンと冷えたビールを手元に用意し、部屋の電気を消してスクリーンの前に座ろう。そして、V8エンジンの爆音とフェラーリの悲鳴に身をゆだねよう。
『激走!5000キロ』――それは、退屈な日常を爆破し、我々の魂にダイレクトに点火してくれる、永久不滅のガソリン・エンターテインメントなのである!