古いチラシが出て来た。開場30周年記念公演「82エロティカル序曲」蜷川 幸雄演出でプロデューサーは東宝於ける蜷川幸雄演出には全部携わっていた中根公夫プロデューサーである。彼は腕のあるプロデューサーで、私もずいぶんといい役を頂いてお世話になった。
この公演は昭和57年公演で、昭和59年3月24日でミユージックホールは無くなった。宝塚劇場の5階にあったがその前には日劇の階上にあった。
この蜷川幸雄演出に出ていたのは、朝比奈れい花。ジャンボ久世。コント赤信号達だった。新宿文化地下でやっていた芝居を感じさせる演出だった。
私は役者になる前から日劇の上にあったホールの楽屋には顔を出していた。近くのアートコーヒーに勤めていたので少しでも芝居の世界に触れたくて、ショーを見に行っていた。同じアートコーヒーで働いていたS君がレギュラー出演者のパン猪狩さんにタップダンスを教わっていた事もあり紹介されたりして、皆とも顔馴染みにもなっていた。
岡田真澄さんがファンファン・ラレックと言う名前でコントをやっていて、砂糖なんか差し入れした。泉和助さんも面白い芸を見せてくれる。私が役者になった時には芸事を泉和助さんには教えていただいた。小浜奈々子。アンジェラ浅丘。松永てるほ。カルーセル・麻紀。谷ナミオ。あき竹城。印象に残っている人々が多い。
トニー谷さんはアクの強い芸風で外人の客にはよく変な英語を使っては、からかっていた。からかわれた外人は喜んでいる。
漫才の南道郎さんの芸はあかぬけていた。後に役者になって私達東宝現代劇の連中に戦争物の作品「今日を限りの」芸術座「ビルマの竪琴」帝劇公演の時に兵隊の規律など熱心に教えてくださった。芸術座の「人間の条件」の将校の役では芸術祭賞の受賞が決まりかかっていたのに何か口がわざわいして賞をとりそこなってしまった、右翼だったがいい人だった。
1枚のチラシで色々と思い出される。
今、こんなミユージックホールみたいなショーで品のあるエロティカルさ、面白いコント、上手いダンス、歌を魅せる小劇場があったらなあ、なんて望んでしまう。
こんにちわ
今日もいい天気
昨日、ボンボンで、歌の前のMC(喋り)の際、
「初めて浅草のロック座で
ストリップショーを観てきました(^O^)/」
と話したら、
川島豊さんがゲストで、
昨日は、女性のお客様ばかりだったのですが、
皆様、興味津々に色んな質問をして下さいまして
暫く、その話しでモチキリ
「蚊に食われてもダメなんですって」
と話して下さったのは、マダムのSさん。
お金を払って貰える裸って
そういうことですね。
アザやシミを作ってはいけない
それこそ蚊に食われてもダメ
日焼けしてもいけない♀
太っちゃいけない♀
鍛えなければいけないけど、
筋肉モリモリになってはいけない♀
しなやかで美しく保つには
相当、日々の摂生と努力がなければ
ストイックな生活と
身体へのケア
大変だなぁーアスリートみたいだなぁ〜
と改めて感心しました。
休み時間に、
SKDがお好きだったお客様のNさんが、
「ねぇねぇ〜タマキさん
日劇ミュージックホール
知ってる?」
知ってますとも
昨日のブログで書き忘れた
フランスのリドやムーランルージュに匹敵する日本のトップレスの
本格的なレビューショー
Wikipediaで調べてコピペしました。
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日劇ミュージックホール(にちげきミュージックホール)は、東京都千代田区有楽町の日本劇場の5階にあったミュージックホールである。
1952年に日本劇場(日劇)5階の小劇場に開場し、有楽町再開発に伴って有楽町センタービル(有楽町マリオン)が同地にできるときに興行場所を東京宝塚劇場に移動し、1984年に閉場した。日劇ミュージックホールは、浅草ロック座、浅草フランス座などと並んで、昭和の裸体舞踊表現を代表した施設だった。上演されるレヴューは主にトップレスの女性ダンサーによるものであり、衣服を脱いでいく過程のあるストリップとは異なる。浅茅けいこ、あき竹城らはテレビ東京の山城新伍の番組『独占!男の時間』に出演し、トップレスでのダンスを披露した
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又、この方のブログが、詳しく分かりやすく
書いて下さっているので、
載せさせて頂きました♀♀♀
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小浜奈々子、松永てるほ、岬マコさんとの歓談 - 遅船庵雑録
大学生のころ長期の休みの終わりに地方の実家から新幹線で上京すると、東京駅へ着く手前で日本劇場が目に入ってすこしばかり浮き立つ気分になったものだった。いま有楽町のおなじ場所に建つマリオンを見てもそんな気にはならない。 早いものでその日劇がなくなってから三十年以上経つ。 昭和八年(一九三三年)十二月に開場したこの劇場は映画の封切館、日劇ダンシングチーム(NDT)…
リンク
nmh470530.hatenablog.com
私もSKD在団中、何度かお邪魔しまして、
その頃は、
岬マコさん、
浅茅けいこさん
が、スターでご活躍されていました。
私にとっては
お二人共、お美しく、カッコイイお姉さん、
大人の女の魅力、凛としたステージ
ホントにカッコよかった
懐かしいナァ〜(T ^ T)
私は浅茅さんが好きで、楽屋をお訪ねし、
浅茅さんも国際請注意日本當地運費,確認後再進行下標。劇場に観に来て下さって
お花も頂きました♀♀
岬マコさんも素晴らしいステージでした
日劇ミュージックホールは、
全部は脱ぎません。
ロック座の
オールヌードになる踊り子さん達は、
皆さん、可愛くて、
まるでAKB(それしか知らない)の中の子のような、
アイドル的な感じで、
やはりあの頃の
日劇ミュージックホールのダンサーさんは、
大人だった
あーいうショーは、もう日本にはないですね〜
SKDの女役さんもそうでした
(脱がないけど)
宝塚は、娘役って呼びますが、
SKDは、女役だったんです。
カッコイイ大人の女のダンス
でした。
アッもう行かなきゃ
又、追って〜♀♀♀♀♀
昨日のボンボンは、
川島豊さん
ボンボンもん
ピアノはショーン星野さんでした
川島豊さん
本来は、第1水曜日のご出演ですが、
今月は、
お正月だったので振り替えでした
ショーン星野さん
今日のボンボンは、
田宮華苗さん
長谷川ゆうりさん
ボンボンもん
ピアノは砂原嘉博さんです
お待ちしております(^O^☆♪
20140510小浜奈々子、松永てるほ、岬マコさんとの歓談日記から
大学生のころ長期の休みの終わりに地方の実家から新幹線で上京すると、東京駅へ着く手前で日本劇場が目に入ってすこしばかり浮き立つ気分になったものだった。いま有楽町のおなじ場所に建つマリオンを見てもそんな気にはならない。
早いものでその日劇がなくなってから三十年以上経つ。
昭和八年(一九三三年)十二月に開場したこの劇場は映画の封切館、日劇ダンシングチーム(NDT)のフランチャイズ、また歌謡ショーや喜劇人まつり、ウェスタンカーニバルなどの舞台となった「娯楽の殿堂」だった。昭和十六年の紀元節の日には「歌ふ李香蘭」の観客が劇場の周囲を七周り半にわたって取り巻いたとか。気分が浮き立つにはこうした事情がある。
日劇の五階には小劇場があり、ここが日劇ミュージックホールとして開場したのが昭和二十七年のことで、舞台ではパリのリドやムーランルージュのようなトップレスのダンサーによる華麗なショーが演じられた。「娯楽の殿堂」のなかでも別格の「ヌードの殿堂」であり、またコメディアンの登竜門としてトニー谷、渥美清、八波むと志、立川談志、コント55号といった錚々たる人たちが出演した。
わたしが「すべて乳房からはじまる」というミュージックホール開場二十周年と銘打たれた舞台を観たのはまもなく大学の四年生になろうとする昭和四十七年の一月か二月のある日のことで、華やかで美しい舞台とあでやかなダンサーたちに魅了されて、ミュージックホールっていいなあ、これからも観続けていきたいなと感じ入った。
じつは大学に入ってすぐのころ一度来ていて、しかしさほどには思っていないから、あの日のステージはそれだけ魅力に富んでいたと思う。
このときのトップスターは小浜奈々子で、高校生のとき「平凡パンチ」か何かでアンジェラ浅丘とともに知った名前だったので「オッ!」だった。のちに「すべて乳房からはじまる」は昭和三十年代なかばからトップの座にあった彼女の最後の舞台だったと知った。斯界の大スターの引退の前にかろうじてまにあったというわけだ。
ちなみにそのあとを継いだのが松永てるほと朱雀さぎり(写真中央、故人、小浜奈々子さんの従妹)、そして掉尾を飾ったのが岬マコだった。
あのとき買ったパンフレットを開くとさいしょに小浜奈々子、つぎの頁に松永てるほと朱雀さぎりが並んだカラー写真があり、若手の岬マコはまだモノクロ組の一人である。
それからわたしは二か月に一度(一回の公演期間は二か月だった)は劇場に足を運ぶようになったが、やがて一年ほどで、大学卒業と同時に帰郷して就職したから以後は上京したときだけしか接する機会がなかった。
昭和五十六年(一九八一年)日劇は老朽化のため取り壊されたが東宝のドル箱だったミュージックホールは日比谷の東京宝塚劇場の五階に移転して生き延びたものの、地の利の悪い日比谷での観客動員は有楽町にあったころに及ばず昭和五十九年三月閉場にいたった。
こうして断続的ではあれ十年あまりにわたりご縁のあった劇場は消えた。
書画骨董をものする技量もなければ味わう素養もなく、仏像にありがたさは覚えても鑑賞する感性を欠くわが美学の第一は女性美であり、最高にショーアップされた女性の美しさを追求し表現してきた劇場の消滅は残念というほかなかった。
閉場は惜しみてもあまりあるけれど、団菊じじいのそしりを免れないのを承知で言えば、いま振り返るとあらためて眼福にめぐまれたものだと思わずにいられない。
松浦静山『甲子夜話』に、若いころ両国に納涼に出かけ、隅田川に浮かぶ大小の屋形船で繰り広げられた弦管の音や娼妓の舞や水に映った燈の光を回想したくだりがあって「年老たるは悲むべけれども、昔の盛なるを回想するに、かヽる時にも逢しよと思へば、亦心中の楽事は今人に優るべき歟」と詠嘆しているが、このくだりは自分のいまの気持と重なる。
おどろいたことに、上に述べたわたしの観劇体験を知る方から、近く小浜奈々子さん、松永てるほさん、岬マコさんとごいっしょする機会があるのでよかったらいらっしゃいませんかとお誘いがあった。
これまではもちろん、これから先もあるとは思えない超弩級の青天の霹靂。
にわかには信じられないほどありがたく、茫然として何をする必要もないのに狼狽して何をしてよいやらわからず、ようやく、さておく何もない無職渡世なのに、何はさておいてもまいりますとお応えしたあと、しばらくは心拍数が増し、その夜はめずらしくひどく寝つきが悪かった。
四月二十六日、いよいよ拝眉の当日である。
お誘いのあった日の驚天動地はこの日、羽化登仙と化して地に足のつかないまま六本木のアマンドへ行くのに千代田線に乗り日比谷駅で日比谷線に乗り換えようとしていたのが、気がつけば車輌は日比谷を通りすぎて霞ヶ関へ向かっている始末で、さいわい霞ヶ関でも乗り換えられるからよかったものの、ここも通過していたらえらいことになっていた。
やがてアマンド到着。それなりに自己紹介の言葉を考えていたけれど三人を前にすると羽化登仙に緊張がくわわり、なにやら形容しがたい精神状態に陥った。素顔は地味だけど舞台化粧をすると華やかに変身するタイプもいるらしいが、素から華やかなオーラのある人たちだからわたしがこうなって当然ではある。
三人の出会いは久しぶりだそうで、とくに小浜さんと岬さんはおよそ四十年ぶりの再会とおっしゃっていた。
コーヒーを飲みながら懐旧談や関係者の消息をうかがうなどこのうえない貴重でたのしいひとときを過ごした。
わたしも名前を知る方がいま鬱状態にあるそうで、小浜さんが、若いときに狭く限られた世界しか知らないから、いろんな人と話をして人間関係を豊かにしないと閉じこもりや鬱になったりするわよ、てるほちゃんもマコちゃんも気をつけてねと先輩らしく声をかけていた。表面は派手に見えても人知れぬ気遣いや制約があるのだろう。
それにしてもあの日客席で見とれていた大学生が、四十年あまりのちに舞台で踊っておられた三人の方とこうしてお目にかかって親しくお話しできるなんて、人生は不思議で、素晴らしい。
お別れしたあと微醺をおびて帰宅していると、杜甫が友との出会いのよろこびを詠んだ「贈衛八処士」(衛八処士に贈る)の冒頭「人生相不見 動如参与商」の詩句が心に浮かんだ。
別れた友との再会はややもすればおなじ天空に同時に現れることのない「参」(オリオン座)と「商」(サソリ座)のように遠く隔たったまま。しかしながら、むかしの観劇体験が新たな感激体験となったきょうはオリオン座とサソリ座がめぐり会ったような一日でしたとわたしはそっと杜甫に語りかけたい気分になっていた。